「トゥンケーリ」それは直訳すると振り返りまたは振り向きだと思う。
八重山の舞踊を想うとき、何とこのトゥンケーリの所作、振り返りのシーンが多いことか。それは別れの瞬間であったり、過ぎた時間を思い起こすとき、またまわりを見わたす所作など、色々な想いからのトゥンケーリがあるが、私はその何とも胸の熱くなる別れ際の「トゥンケーリ」が好きである。
不思議なことに何度同じ踊りを踊っても、その時々で感じ方(振り返るときの想い)が違うのである。想いをそっとそこに残しつつ振り向きなおるやるせなさ、想いがつよいだけに振り向くことのできないせつなさ。
別れ際、帰り際、退け際、トゥンケーリとはまさに、その「きわ」の心の機微を言うのだろうか。それは心の動きの「はて」であり、「しめ」であり、「むすび」であり、きわめて「長い瞬間美」ではないかと想う。一瞬でしかないトゥンケーリに深い想いと長い時間を感じ、これほどまでに私がこだわるのはなぜであろうか。
今想えば私にとってあのトゥンケーリは何だったのだろう。八重山を離れ那覇の高校に入学して二ヶ月がたった頃のある日、出張中の父が私の寮に会いにきてくれた。帰り際、曲り角までの道を何度も何度も振り返り大きく右手を振っていた父…。少しでも長く姿を見ていたくて立っていた私…。またすぐに会える想いで、父の振り返りを見送ったはずだったのに…。あの光景はまさにトゥンケーリ見ぃ見ぃであった。それは父から私への最後のトゥンケーリとなった。
私はこれまでに舞台で色々な想いのトゥンケーリに出会ったが、心をうつ芸はその舞踊の持つ想いがトゥンケーリに集約されているとさえ思えるのだ。舞台の出会いであれ、日常の出会いであれ、振り返りとそして向き直った背が、たまらないほどのやさしさやせつなさ、やるせなさやさびしさ、そして凛としたつよさをも語ってくれる。
いつの日か、心に残してもらえる「語りかけのトゥンケーリ」の踊りができる日を…。
(琉球新報「落ち穂」1996/7/16掲載)