昭和五八年の三月、鼓童初の石垣公演の時、私は八歳であった。
当時『佐渡國鼓童』として新たに歩き出して間もない十五名余の若い衆は、我が家の二階(現小劇場アトリエ游)を宿にして石垣での公演活動を行ない、滞在中は島の長老や男衆から棒術などの芸能を習いに村々を訪ねていた。そして毎日の早朝ジョギング、驚きの発声訓練、幼い私にはお兄さん、お姉さんたちのとにかく一生懸命な姿がとても印象的であった。
まだ大きな施設の備わっていなかったあのころ、 鼓童の初来島公演は八重山高等学校の体育館で催され、超満員の島人たちにそれこそ初めての感動を与え、驚嘆の声があがったことは言うまでもない。
幼かった私が覚えていることと言えば、大きな音。小さな音。体育館が吹き飛ぶような大きな大きな音と、思わず目をとじて耳をすます…小さな小さな刻み。小さな音から大きな音へ…大きな音から小さな音へ……太鼓というシンプルな打楽器の可能性など知る由もなかったはずの私の小さな身体は、ただただ一生懸命に響きや調子、流れや交わりを受けとめていたように憶う。
そののち、昭和六一年、平成五年と石垣公演はつづき…
「大きな音・小さな音」にはじまった私の鼓童体験は、歳を重ねるごとにふくらんでいった。
太鼓に重なる「篠笛(しのぶえ)」は力強い太鼓のうねりに哀しく届き、管が細く極めて繊細なその音色は南国の笛とはまた違った魅力がある。秋田県は「西馬音内(にしもない)地方の盆踊り」編笠からのぞく女性の衿足のなまめかしさ、身体の“しなり”や“なより”の美しさは、男衆の力強い演目のはざまで、実に妖艶でたまらなかった。沖縄の三線よりも長い棹(さお)を持つ「三味線」の演奏は、何だか背筋がピンとして集中する。
そして『太鼓』といっても色々である。 鼓童の稽古は、「締め上げる」ことから始まる、と聞く「締太鼓」は何とも小気味の良い音で気持ちよく、「大太鼓」の音はあたたかく包み込まれるような力強いやさしさがある。「大太鼓」と言ってもただの大きな太鼓ではない!それはそれは巨大な太鼓である。そしてその中には我が沖縄のエイサーに見られる「パーランクー」なども交ざりあう…。かろうじて聴きとれる最弱音から驚くべき最強音まで奏法も様々で、単純な楽器と理解していた太鼓が実に多様な音、多様なリズムを奏でるということにとても感動したものだ。
さて私たちの八重山の島々にもたくさんの宝がある。
それは祭りであり、うたであり、踊りであり、前述の鼓童感動体験と同じように世界を魅了する可能性を秘めているものだと私は思う。ただその島、その村、その土地に根ざしたそれらの芸能は、その時、その場を離れては意味を持たず、そのまま舞台にのせてもあまりおもしろいものではない。また伝統を守ることは伝統に縛られることではなく、伝統の中に私たちが生きている現代にも通じる力や想いを見い出し、再創造することで、今生きていることの証しとなり、生き続けるものだと考えている。またきっとそう問われているに違いない真っただ中にいる私は、いろいろな重圧に負けそうになり、壁にぶつかりそうになる度に、鼓童が示してきた劇場空間の中における民俗舞踊の可能性、伝統芸能の再構築や舞台化への課題、そしてそこには人々の心に響く大きなエネルギーがあることを思い出し、教えられ、強く確信してきたように思う。
また未だに日本の地方は中央に従属している中、この小さな島を発信受信の基地とする私や島の若者たちにとって、日本海に浮ぶ佐渡を拠点に世界中を駆け巡る鼓童が切り拓き、歩いてきた道は、大きな励みとなり、勇気となるであろう。それは何も芸能にたずさわる者だけにとどまる力ではない。
さて何度目かの鼓童公演のパンフレットに印象に残る言葉があったことを思い出す。
「伝統音楽は若者の音楽だ!」
鼓童公演を体験する度、鼓童のいろいろな活動にふれる度、また私が佐渡へお訪ねする度に、この言葉は私の支えとなり、力となっている。
思い起こすと鼓童の初来島から二十年近い時が流れ、母や今は亡き父が、島の若い力を結集して実行委員の活動をしていたことがとても懐かしく思い出される。あれから二十年の年月の中、鼓童の演者もそうであるように、お迎えする私たちも次の世代へとつながり、八歳だった私も実行委員の一人となっている。いついつまでも絶えることのない結びでありたいと願うものだ。
そして今回、九年ぶり四度目の鼓童公演!
近い将来、この島からも八重山の芸能を担い、鼓童の一員として世界を渡る若者が、誕生するかもしれないと思うと、それもまた楽しみの一つである。
太鼓に負けないだけの鍛えぬかれた体力、深い自然に抱かれた佐渡をバックボーンに磨きあげられた技術と感性、そして童のように無心に、とらわれる心なくたたこう、生きていこうとする鼓童の舞台を、もちろん若者だけでなく、子供からお年寄りまで、一人でも多くのみなさまに、ご覧いただきたい!
あなたの眼で、あなたの耳で、あなたの身体で一生懸命にお感じいただきたい!
そしていつぞやか私たちも、一つの小さな中央の真となりたいものである。
(八重山日報 2002/11/20掲載)