稽古場の窓は南の空に大きく開いていた。心地よい秋風の中、お弟子さんたちが秀師匠を和やかに包みこむ。去る10月30日、那覇市の県立郷土劇場で第11回目の発表会を終えられたばかりだ。稽古場には未だ冷めやらぬ興奮が満ち満ちている。無造作に巻かれたはちまき姿の秀師匠、「本盛先生らしいスタイルで・・・」とお願いした私の、期待通りのお姿だった。
秀師匠の芸への厳しさ、稽古中のあの迫力を知るだけに、私はいつになく心がひきしまっていた。「稽古場ではきびしいです。でもねぇ、1階(自宅)に降りてきたら、普通のおばさんですよ〜」。眼鏡の奥の鋭い眼光が一気にほどけると、向かい合う私もホッと楽になった。
「人を感動させる踊りの美しさに興味はあっても、自分には『踊り』は向かないと思っていたんですよ」。10代後半から20代前半の台湾時代を経て、終戦後、島に戻る。青年団活動を終え、結婚。婦人会活動に関わる中、山川政子師匠のお声かけがある。「踊りを始めるのに大変な熟慮と勇気が入りましたね。でもある時、私の職場であった市場で、素足で汗を流し働く、大衆の息吹の中から生まれる踊りを踊ってみたい!と思ったんです。そこからですよ」。
島々村々に眠る伝承舞踊の掘り起こしを始める。とりわけ昭和52年に成し遂げられた『大川布晒し節』の発掘、再演は大きな業績として称えられ、また八重山舞踊の昔風から新しさをもとめて、振付や創作も数多く重ねられてきた。
そして芸歴40余年になる芸道の追求には、3年前に他界された夫君、茂氏の存在が大きい。「主人に甘えていたんですね、一人になった途端、自信もやる気も失ってね、心身共に大変な2年間でした。私を支えてくれる生徒たちの心が、もう一度! と私を奮い立たせましたよ。その絆が生んだこの3年間にこそ、私の舞踊人生が凝縮されているとさえ思えるほどにね」。平成15年、那覇教室開設。平成16年には県指定無形文化財八重山伝統舞踊保持者の認定を受けられた。
「さようならの日まで、一つでも多くのことを伝えていきたい!」。生きる力となった生徒への恩返し、命の源である八重山舞踊への感謝の念は、82歳現役舞踊家の夢へと繋ぐ。
今日も稽古場のあの窓辺で、南の空を高く見上げる秀師匠の凛とした背姿が思い描かれる。
(情報やいま「八重山人の肖像」 2005.12月号掲載)