私は今-おどり・踊り-で時を過ごしている。踊りに熱中しているのだ。
「歩み・振り・姿・表情・間合い・思い…」実際に体を動かして稽古をしているときのみでなく、私のすべての思考が表現ということに起因していることに、あらためて気がつくこのごろである。何をするにも、その思いが軸になっているといっても言いすぎではないように思う。
思いおこせば二十年前、画家である父と舞踊家である母との間に私が生まれたその時から(母の胎内にいた時から)我が家には父と母の創る姿があり、そしてそこには毎晩のように芸術論をたたかわせる大人たちの声があった。子供ながらにその空気が私はたまらなく好きであった。
私の育った二十年の歳月をさかのぼって思う時、父が描いていた油絵の具のしみついたアトリエのあのにおい、そして新しい作品づくりに模索する母の姿…。それは私にとって懐かしい、そして何よりも貴重な宝物である。
今、私は創るという世界に足を踏み入れた。それもごく自然にである。その道を決めたのは演出という仕事に興味を持ったことに始まる。それにはまず「演じる」という立場の自分に出会いたくて二年前、あらためて舞踊家である母に弟子入りしたのだ。
私にとって驚くほど自然でとりわけ考えることもなく、その道を歩み始めていた。二十年の流れが大きく導いてくれた感がする。日ごとにその思いはつのるばかりだ。
自然の時の流れ、事象の流れのすごさと併せて、この先、自己の作業の中で「意識する」ということの意義を感じ始めている。
(琉球新報[落ち穂]1996/7/2掲載)