一九八七年十一月「大韓航空機爆破事件」。実行犯の一人、金賢姫が自殺防止用の白いマスク姿でタラップから降ろされた時の映像は、今でも多くの人の脳裏に焼付いていることだろう。
当時、独自の情報網を駆使し、犯人金賢姫の追跡と拘束に、命をかけて挑んだ一人の日本人外交官がいた。一九八六年から、在バーレーン日本国大使館に赴任していた砂川昌順氏、その人である。
「私は宮古は城辺の砂川(うるか)の血ですよ。姉兄、そして私も生まれて三ヶ月間だけ、宮古島で過ごしています。宮古の地で生を受ける、これは父と母の宮古の地へのこだわりだったのでしょう」。とてもさわやかで、気さくに話される昌順さんと、あの悲劇とはとても重ねようのない、それは清々しい初対面の時であった。ピリピリとこわばって、半ば身構えていた私の身体は、一瞬にしてほぐれたかのように思えたのである。
公務では成し得なかったところを単独、独断で追跡。幾度となく危機一髪のところを切り抜けてきた。外務省辞職後は諜報機関の影が完全に消え去るまで、三畳一間の隠遁生活を余儀なくされたという。想像するだけで息が詰まりそうで、その精神の消耗は決してはかり知れない世界なのだろうと、私は再び肩に力が入った。一つの節目・区切りを迎えたのは二〇〇三年の秋、事件の真相を『極秘指令(金賢姫拘束の真相)』に書きしるし、身をひそめた生活に終止符をうった。
島、そして両親との十八年ぶりの再会、その時を思い返す彼の頬を、大粒の涙がつたった。「宮古、うるかの血がそうさせるんですかね…」。向かい合うものにひたすらに一途な性格、それゆえに抱かせてしまった、息子を想う両親の、苦悩の歳月。こらえることなくあふれ出た昌順さんの涙に、心が少し安んじて、いつしか私も涙を重ねていた。
その後、データベース開発や翻訳をてがける「(株)デプロ」を設立。現在も世界中を駆け巡る。また子会社の「(株)NetLive」では、インターネットによるライブ中継で沖縄出身の若手音楽家を惜しみなくバックアップしている。
「決して、島社会に固執することなく、いつ時も島と外との交わり、広がりを大切にしたい」。国と国とを結ぶ重責に身を投じてきた彼だからこそ、島への想いもまた、格別に熱くたぎるのであろう。
(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.7月号掲載)
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