昭和61年6月3日、待望の石垣市民会館が完成した時の、私の感動と興奮といったらただならぬものであった。思い起こせば小学5年生だったようだが、21年の歳月が経った今でも、あの時刻まれた強烈な印象は、私の胸を熱くさせるのである。
「私たちには、私たちの祖先が創造してきた格調高い民俗文化があり…」ときの市長、内原英郎石垣市長の力強い開館のお言葉に、子供ながらにとても誇らしい心持ちを覚えたことを、私は今でもはっきりと憶えている。
その記念すべき杮落とし公演は、それこそ私たちの祖先が、いにしえより、暮らしの中で、あるいは祭りの場で、歌い継ぎ、踊り伝えてきた民俗芸能の舞台『ばがけぇーらの踊り』であった。
石垣市民会館初代館長であり、沖縄を代表する演出家であられた故宮城信治氏の演出のもとに繰り広げられた八重山民俗舞踊保存会の皆さんの熱演は、晴れやかな祝いの日の「さにしゃー」の想いをいっぱいに包含した、まさにハレの舞台。ことに、米つくりの行程をメドレー形式で組み立てた第三部では、それまでに観たことのない演出が斬新で鮮烈だった。
踊り手たちによるユンタジラバの声の響きは島の子である私の血をさわがせ、体を奮い立たせた。踊り手たちの汗は陽光の眩しさを想像させ、積み上げた俵を囲み、歓喜に満ち満ちた幻想的な「とぅずみ」は、清らかな風のそよぎを肌に感じさせるほど荘厳だった。
また、舞踊化された農作業の具体的な所作に、めずらしさ、おもしろさを感じておこる客席のどよめきや、なつかしさに涙ぐむお年寄りの姿も見られ、演者と観客とが一体となって創り出す「舞台」という一世界の、美しい力を授けてくれたように思う。
ところで、それまでの発表の場といえば、学校の体育館、各公民館、またはホテルの宴会場といった具合で、音響や照明、舞台美術などの技術環境はもとより、専門の技術スタッフもまだまだ乏しかったと思う。観る側の環境も決して恵まれてはいなかった時代を思うと、踊り手のみなさんのあの顔、あの瞳、そして体の内から溢れ出るような力の漲りは格別だったように思う。
「私たちの芸の城・発表の場、そして活動の拠点が、今ここに築かれたではないか。さぁ 私たちの時代がやってきた!」。きっとこの心意気だったのではと思う。目をとじると、新井三千師匠、金嶺ヒデ師匠、大浜良子師匠をはじめ、今は亡き先輩方のお元気だった姿をも鮮明によみがえるほどだ。
さて、本日3日に石垣市民会館開館二十周年記念公演で『ばがけぇーらの踊り』が再演されることとなった。あの時、わくわくしながら鑑賞していた小学5年生の私も、今回は八重山民俗舞踊保存会の一員として演者の一人をさせてもらうことになり、二十余年前のあの日の感動と、今舞台に立つことのできる喜びとが重なり、身の引き締まる思いである。そして八重山の古(いにしえ)人たちが、また舞踊界の先輩方が積み重ねてこられた熱き「想い」を、私があの時授かったように、私も次へとつなぐことのできる一人になりたいとつよく思う。
(八重山毎日新聞 「随想」2007/6/3掲載)
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上記は 6月3日の『ばかけぇーらの踊り』公演 再演に向けての想いを 八重山毎日新聞に掲載していただいた文章です。