二十年ほど前まで、穏やかで静かな護岸端だったとは、とても想像がつかないほど、大通りを行き交う車の群れは、切れ間なく、絶え間なく続いていた。潮の香りをつれて南からそよいでくる、やさしい海風だけが、その記憶をとどめてくれているような、そんな気さえしていた。
比嘉家の二番座、海をまっすぐに見据える仏壇のトートーメー、その傍らに並ぶ年老いたご夫婦のお写真。家内をじっと見守っている。
「元々、祖父と祖母は山原出身で、祖父は七歳、祖母は九歳の時に『糸満売り』として、糸満を経由して石垣に入ってきたんですよ。」イチマンウイ(糸満売り)あるいはヤトイングヮー(雇い子)、コーイングヮー(買われた子)などと呼ばれた年季奉公の少年少女たち。「ヤトイングヮーはとても辛く、厳しい歴史です。でもそれで生きながらえることができたという面もあるのではないですかね…」。時々見上げるようにして、高くかかげられたお二人のお顔と見交わす康雅さん。きっとそうであって欲しい…という念い(おもい)を感じずにはいられなかった。
高校卒業後、一本釣りを主に、漁師の道を歩み始める。祖父から父へと受け継がれた海に生きる魂は、技となり、知恵となって康雅さんの肉体へも刻み込まれていった。また、八重山漁協青年部での活動、第二十六回全国漁村青壮年婦人活動実績発表大会への出場、八重山漁業協同組合・組合長の任を経て、沖縄県漁協青壮年部連絡協議会会長や、全国漁青連理事の役も長年つとめてきた。
「海のある県には、ほとんど行きましたよ。見聞を広めることの大切さ…海人も、井の中の蛙にならないようにね…」。日本最南端の、漁業者の生の声を、自ら出向いて積極的に発信してきた。
そして今、たどり着いたのは漁業と観光との融合。看板の【海業(うみわざ)観光】の力強い言葉が目に飛び込んでくる。実際の操業で使用している漁船に乗り、亜熱帯の海で鍛えられた「海業(技)」を舵に、ウミンチュ(海人)体験ができる究極の海遊び。まるで過ぎ去った記憶を秘め、大通りを突っ切ってきた、あの海風のように、島の漁師ならではの心あたたかな観光の形に出会えた気がした。
培われた海人魂は、諸々の荒波を乗り越え、今、新しい海の道を切り開こうと燃える。海の男の眼差しを見た。
(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.10月号掲載)
コメント