関東も梅雨があけた今月の中ごろ、神奈川県の葉山へ行く機会があった。母の舞台の付き人としてである。「アメージング・ブルー(聖なる青)」と題してのその集いは、私に青(藍)という色への想いをあらためて湧き立たせてくれた。いやそれだけでなく、今なぜこれほどまでに青が私をとりこにするのだろうか。過ぎた時が活(よみがえ)ってくる。
そういえば我が家には母の踊りの衣裳のいろいろな藍の色があった。藍がもたらすその色は実にたくさんの顔を魅せてくれる。
藍がめの中をそっと一度だけくぐってきたような青…。それには限りない晴れ晴れしさを感じ、うっすらとした青が喜びの風をいっぱいにはらんでいるかのように見える。喜びのことばには変わりないが、これこそ私の島の「サニシャー」の青なのだ。
豊年祭のこの季節、祭のことと重なって見える藍がある。いかにも手間と想いをかけ、幾度となく藍がめをくぐらせることを重ねただろう、黒に見まがうほどのたまらなく深い藍…。祭りの日の一番座に坐す家長の衣のその藍に厳かさを、また動く男衆のまとった藍に誇らしさと力強さを覚えるのである。
母の作品の中に「月願い」という舞がある。羽織った藍型の打ち掛けの浅色濃色に母は念いの彩を折り込んでいるのであろうか。あたかも「月(陰)の青」に燃えたぎる女の炎(ほむら)の「太陽(陽)の青」が交わっているかのように思える。この打ち掛けの藍に派手の極みさえ感じるのは私の想いの変化であろうか。
私にはもうひとつ忘れられない「青」がある。二十年近く厚ぬりの赤と黒を描きつづけていた父が、ある時、突然青い絵を描いた。「光と風が通り抜けるような透明感のある絵を描きたい」と…。
南風(パイカジ)という絵を描いた年の夏、父は青い海で逝ってしまった。その青い絵は父の最後の作品となった。
今回のアメージング・ブルーとの出会いは、私に過ぎこし日々の情景を思い起こさせてくれた。ますます好きになりそうな「青」。私の青の旅はまだまだ続きそうだ。
(琉球新報「落ち穂」 1996/7/30掲載)
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