恵みの雨をもたらした長い台風の時間が明け、島に夏の光と心地よい風が帰ってきた。
今夜もまた太鼓と鉦鼓の音が、私を騒がせる。ワサワサと心が躍る。
私の大好きな祭りの季がやってきたのだ。
今年の豊年祭は私が生まれ育った村のお嶽で踊りをするお役目をいただいた。八重山舞踊が感謝と祈りの心から奉納舞踊として生まれ伝えられてきたことは書物や話でいつも心にとめてはいるものの、さすがにこの日の拝み手は単に所作とは言えない、まさしく感謝と祈りの念いであった。それを思うと人頭税に苦しんだ昔人の祭りはまさにハレの日であっただろうし、そのことで生活(くらし)をそして命をつないでいたようにさえ思える。小浜島のあかまた節の「踊らばん踊り 遊ばばん遊び 手寄し働き」の一節はこういう想いを詠んでいるのだろうか。
それにしても、先人たちがつくりあげた「祭り」という舞台は実に見事な世界である。
真っ青な空に勢ぞろいした旗頭…それはその村の顔を持ち、いかにも村をまもり、民を見守っているかのようだ。年に一度だけお目にかかれる旗頭を青い空に拝む時、胸があつくなり目頭がうるむのも幸せの限りである。
お嶽を抱きこむかのように聖なる空間を包みこむがじゅまると福木…老樹にもハレの顔がみえる。
またこの瞬間(とき)を待っていたかのように落ちる雨…雨を受けて立ち上がる地の熱、雨と濡れた土のしみ込んだ大綱、それに人衆の汗の匂いが入り交じって、これもまた何とも言い様のない「祭りの匂い」である。自然がもたらす、この日この時だけのぜいたくな演出に私は毎年酔ってしまうのだ。
藁綱を腰にしめ旗頭を巧みに操る男たちのたくましさ、それでいて女たちの巻踊りをあたたかく見守る男のやさしさ、また雄綱と雌綱を結ぶカヌチ棒を貫く女のあのつよさ、裏方で祭りを支える女たちのこまやかさ、「祭り」とは男が男らしく、女が女らしく、まさにそれぞれの「剛」と「柔」が織りなす美しい日だと私は思う。
私の祭りへの酔いを綴ってはみたものの、あらゆる言葉が欲しくなり、またどんな言葉でも言い得ない、言い尽くせない感がする。
(琉球新報「落ち穂」 1996/8/13掲載)
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