「音」とは人間が持つ五感の中で聴覚に伝わるものであり、それは摩擦や振動が空気や水や、あらゆる空(くう)を通して耳へとたどりつく「聴く」という感覚だと思っていた。が「音を観る」という驚きの出会いがあった。
去年の冬、弦楽四重奏の演奏会があった。同じ音質で音域の異なった四つの音色の重なりの美しさはもちろんのこと、小空間での演奏だったからか、普段当たり前のように聴いていたその楽器の奏でる音が、まさに弓と弦とが触れあうことで生まれてくるものだという感動があった。弓を持つ手の表情や、奏者の体の揺れまでもが「音」なのである。その感覚は「聴く」ということを通りすぎて「音を観る世界」を私に与えてくれた。不思議な感覚を覚えた私はその時から、私の体に伝わってくるいろいろな音覚との出会いを探すようになった。
「音を観る世界」をたどっていくと、現に音は聞こえてはいないが、観ることで聞こえてくる世界もある。物理的に生じる音は無いものの、一枚の絵は静止した状態からたくさんの音を聞かせてくれる。観る人それぞれの生まれ育った環境や体験、思い出や願望から体内で生まれ響く音である。作品と観る側との間には観る人の数だけ幾種類もの音がめぐるのだ。何と美しい「音の観える世界」だろうか。
舞台という限られた空間で無限の効果をみせてくれる音もあった。あの冷たい鈴の音はしんしんと降り積もる厳しい冬を舞台一面に描き立ち向かわねばならない時の刻みや、激しくこわばった人の鼓動にさえも聞こえた。目には見えないまでも、辺り一面眩しいほどの雪景色や内面の葛藤までもがたった一つの鈴という音を通して、はっきりと視えたのである。「音から観えた世界」との衝撃的な出会いであった。
「音」は人間の感情をゆさぶり、人間の追体験としての情景を描かせ、心理をかき立てる魔力を持っているようにさえ思えるのだ。
(琉球新報「落ち穂」1996/8/27掲載)
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