十日ほど前だっただろうか、出張から戻った母がいつものようにお土産を買ってきてくれた。長崎からのカステラである。特別好物ではないものの、スポンジの下に敷かれたカラメル色と、そこにのぞくあのザラメの存在に私は毎度心をひかれてしまう。できるものならば、その部分だけを贅沢に味わいたいものだと思うのだが、あの薄い紙に残りついたカラメル味を、丁寧にこぞぎ取っていただくところが何ともいえない魅力なのかもしれないと思えるようになった。
カステラのザラメは論ずるまでもなく、それに始まって私の「食」の基準はどうも「はじっこ」にあるようである。
いただき物の羊羹(ようかん)が長い間冷蔵庫の番をしていることがよくある。小豆色の甘い固まりは、待ちきれず、我慢できずに端の方から白く透明のベールを纏(まと)う。冷蔵庫の中で姿を変えた羊羹はまるで「きんつば」擬き(もどき)である。特にはじっこのお砂糖色の固まりはたまらなく美味しいので、ついつい待たせてしまう。変身前の羊羹よりも擬物(まがいもの)のきんつばの方が趣があるのだから不思議である。
海苔巻きのはじっこもご機嫌である。
顔を突き出したような干瓢(かんぴょう)や卵は、ご飯の割に豪華なのだから…。
法事ごとの霊供や、十六日祭のお重箱(ズブグ)の中には端がきれいに切り揃えられた揚げ物や煮物がお行儀よく並んでいる。お役御免で切り落とされた方は、不格好で肩身が狭そうにしているが、そちらの方がはるかにおいしいのである。
私は台所でこそこそとつまんでいるが、あれは台所を任せられた女たちの特権である。
お祝ごとの羽ハンビンのはじっこも最高である。おめでたく広げた羽の部分は一段に「かりっ」と揚がって実におめでたい味である。
私の豆腐好きにも頑固なこだわりがある。
特に木綿豆腐ははじっこに限ると思う。粗い布目の跡はお豆腐やさんの製造段階が見えるようで楽しくなり、お豆腐のたくましい栄養分が凝縮されているようでいい気分になる。
毎朝お目見えの卵焼きや目玉焼きも、焼き色の濃いはじっこの部分は特に香ばしく格別である。
クレープやポーポーもまた同じである。
ただ、その「はじっこ」というのは数や量に限りがある。
いわば限定品であるがゆえに、とりわけ旨いのであろうが、くやしくて仕方がない。それに大人と呼ばれる歳になってから勝手に味わえる限定物である。「今から成長する子にはじっこなんぞ…」もちろん好いところをとられまいという気持ちではなく、それはとてもあたたかく、やさしい大人たちの言葉だったと十分にわかってはいるものの、どこかくやしいのである。だからというわけではないが、あんこの入らない「かるかん」なんぞに巡り合うと、それはもう幸せそのものである。
それはまるで「はじっこ」を丸ごといただいているようでとても贅沢なのだから…。いっそのことたい焼きや大判焼きのあん抜きもあってほしいものだと思うほどだ。
さて、私の「はじっこ指向」はなにも「食」だけではないらしい。机の下やグランドピアノのお屋根、お部屋の隅っこ、うずくまって入れる隅の方が私にはちょうど好く、心地よいのである。
隅っこ… 端っこ… 角っこ…
カステラの敷き底を見つめる幸福感と何だか通ずる心地よさがある。
もし我が家が三角お屋根のお家で小さな小さな屋根裏部屋があったりしたら、そこは極上の「やすらぎ部屋」であろう。
私だけの贅沢にひたりつつ、秋の夜長を味わいたいものである。でもおはぎのあん抜きは厳しいかなぁ…
(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/11/8掲載)
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