私の最愛の父が私の生きるこの世から、いなくなってしまったのは、ちょうど七年前、私が十五歳の夏でありました。
私の中の「私」の記憶は三歳ごろまでさかのぼることができますが、十五年の間に娘として眺めた「父」の記憶は、とても断片的で、折に触れ、時に接して思い出す具体的な印象は、なぜか漠然としているのです。ただ、結論的に「私」というひとつの人生を強く導いてくれた人物だという意識があり…ということは私にとって父の記憶は父親というより、画家新城剛(しんじょう ごう)なのであります。
それは何も「親子」という血縁的感情がないといわけではなく、姿が見えなくなった今でも、いや今だからこそ、熱く燃ゆる画家という父の血が私の中で生き生きと脈打っているのを感じるのであります。それこそが私の血縁的感情だと私は思うのです。
舞踊家である母への想いも同様です。
父が健在だったあのころ、父と母と私の生活の中で、互いの意識がそうであったように、今でも母と私は二人の女性であり、そして師匠と弟子、時には同じ道を志す大先輩と同居させてもらっている気持になることさえあります。
「べったり」とくっついている一卵性親子時間あり、それぞれが何かに没頭する私時間あり…かつて二人で美を追い求めていた父・母である男と女、そして私・娘の組み立てた我が家の「親子」感覚は、いまだにとても快適で、かつ激戦…すなわち大変刺激的であります。
さて「美を追い求める」と書きましたが、キャンバスに向かい立つ父はまさしく絵に描いたような画家…と言いたいところですが、お話しに出てくる絵描きさんのベレー帽姿とは似ても似つかぬもので、汗止めにと強くねじった手ぬぐいを額にぐるりと巻いておりました。
油絵の具のチューブの洒落た横文字メーカー、ペインティングナイフのライン、部屋を囲む石膏像達…西洋の風を感じるアトリエと呼ぶ画家の部屋に、父のあの姿は実に滑稽です。
そんなユーモラスな光景も作品の出品を目前に、いざ追い込みの何日間は声もかけづらい程の張りつめた時間であります。
夜も遅く庭の木々に映る二階のアトリエの静かな明かりに気がつくたび、父の孤独な戦いを見守るたびに、私は「画家である父」という意識を重ねていったのかもしれません。
先日、久方ぶりに画家新城剛に会いました。島を愛し、祭祀に魅かれて描き続けたあの分厚い赤と黒の重なりが、父と私を強く結び、引き合わせてくれるのです。彼が遺した絵を目の前にすると、あのころの時間が昨日のように甦ってくるのです。今、彼にそして父に会うたびに、表現の世界を志す厳しさが庭に映る孤独な明かりとなって私に憶(かえ)ってくるのです。そしてその想いを痛感するたびに、創りだす明かりはとても美しく、ドクッドクッと血が騒ぎ、創造の世界に吸い込まれていく私を感じるのであります。
「画家である父」の熱い熱い血が私の身体の中で脈々と流れるのであります。
(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/9/20掲載)
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