ーみどりー私の島を染める色である。
窓の外には福木のみどり、おもとの山にも年中変わらないみどり。私は島にあふれる「みどり」という色に気をとめることもなく、それどころか、あまり代わり映えしない島の色にうんざりすることさえあったように思う。「みどり」という色は私にとって特別な色ではなかったのだ。
「みどり」とは本来、瑞々(みずみず)しいという感じを表していたようで、新芽や若葉の黄ばんだみどりの萌黄から、青々としたみどりの深緑まで、草木の生育を表す色だという。
「みどり」は冬の後にかならずめぐってくる規則的な四季をもつ人々の自然賛歌を表していたのであろう。
若緑や若竹は青春や青年の清らかさや涼やかさを、常緑樹の濃く深い常葉(ときわ)色は、常に変わらないことを賛美して、人類永遠の願望である不老長寿のシンボルとして、神聖な色に思われたというのだから、春夏秋冬、寝ても覚めてもみどりに守られているこの島に「心から感謝」と思うべきなのであろうが…。
あまり興味のわかない「みどり色」だが、踊りをしている私にとって、切っても切り離せないみどりがある。島の自然(みどり)の生む染・織(そめ・おり)の世界である。
衣裳とは、ただ単に踊り手の身を包むというだけではないと思う。八重山の踊りが暮らしの節目の祭の日に感謝と祈りの思いから、奉納舞踊として生まれ、今日に伝えられたように、女たちは糸を績み、糸は島が包含している色に染められ、機にかけ、彩を生んだ。そしてそれは、踊りと共に神へと奉納されたに違いない。
祭の場が舞台空間へと変化し、八重山舞踊がひとつの表現芸術になりつつある今だからこそ、島色に染められた衣裳へのこだわりが深まるのである。
でも不思議である。同じように見える木々のみどりから、まさにいろいろな色が生まれてくる。
蘇木(スオウ)のみどりは、妖艶な女を思わせるような深い赤…女人そのままを表す魅力的で魔物のような赤へ。
琉球藍のみどりは、瓶のぞきと呼ぶ淡い青から、黒に見紛う深い青の濃紺まで…島の祭りの男の色へ。
いつも同じ顔の我が家の福木でさえ、金色(こんじき)を思わせる冴えた黄色に化けるのであから、島の自然(みどり)色は、私にとってー魔法色・まほういろーそのものである。
さて植物であれば、緑は一番に染まりやすそうな色だが、これまた不思議なことに、単独の緑の染料はないらしく、青である藍の濃淡に、福木や梔(くちなし)の黄をかけ合わせることで、数限りない緑が生まれるという。光の黄色と闇の青とが生む、まさに「みどり児」の誕生である。
みどりの中に、目には見えない赤や青を思うとき、島のみどりが、ことさらに美しく見えてくるのも、秘色をふくんだ、みどりの魔術であろうか。
島の秘色(みどり)に抱かれたとき、幾色をも思わせる踊り手に、そして自分になりたいと私は思う。
(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/5/10掲載)
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