前夜、夢中で読み耽った『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(大濱永亘さん最新の著書)
私が、オヤケアカハチの生誕の地と言われる波照間島をルーツに持ち、また一方で、それに敵対する長田大翁主の血筋(長栄姓一門)だからであろうか。群雄の英姿を巡らせては、一人興奮していた。
熱くたぎる血の騒ぎを抱きながら、大浜永亘さんとの初対面を前に緊張していた私は、出しなに、わが家にかろうじて伝わる長栄姓一門の系図をそっと拝借し、持参することにした。先祖代々のお力を頂戴したかったからであろうか…。
がっしりと、恰幅のよい永亘さんは、長年、県立八重山商工高校で教鞭を執る傍ら、考古学研究のため、八重山の島々を踏査。フィールドワークで得た考古学的資料を大きな柱に、八重山の歴史や文化を一つひとつ紐解く、郷土史研究家のお一人でもある。
「学校で教えているのは“さんみん”(計算)ばっかりさぁ」。朗らかに話された言葉に耳を疑った。てっきり社会科の先生だと思い込んでいた私は、著書や研究論文、これまでにまとめられた膨大な資料を前にとにかく仰天したのである。
さて遺物や遺跡を通じて、過去に生きた人々と対面・対話できる…そんな魅力を秘めた考古学との出会いは、永亘氏が小学六年生のころにさかのぼる。石垣小学校の校庭で見つけた一つの石。丹念に磨かれた、かたくて手ごろな一点の「石斧」との出会いこそが、永亘氏が考古学の世界に生きる原点となった。
また、中学二年生のとき、八重山初の本格的な考古学調査となった「早稲田大学八重山学術調査団」との運命的な巡り合わせが訪れる。山原貝塚の発掘調査が始ることを新聞で知った永亘少年と友人は、調査団の宿舎を訪ね、調査への参加を直接交渉。その充実した一週間は、その後の研究へと繋ぐ原体験となった。そして自らのルーツ解明をきっかけに手がけた家系一門の系図づくりも、八重山の歴史の謎を解く大きなカギとなっている。
「何事にも情熱をかたむけ、こつこつとやり続けること、前向きに努力することで、必ず道は開かれる!」。
五十年前、小学校の校庭で、小さな手に握りしめた、一つの石斧と強い願望。
『汝の立つ所を深く掘れ!』。ひたむきに追い求めてきた少年は、今日もまた掘り続ける。甘き泉を求めて…。
(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.4月号掲載)
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