「閉-とじめ-」はたす・すます・なしおえる・おえること・とじむること、とある。
何かの閉(とじ)めのとき、または何かを閉むるときの充実感は、何分にも替え難い絶頂のときである。またその充実時間の生む解放感は、心身の疲労さえも明日の力へと変えてしまうのだから不思議なものだ。「終わり良ければ…」とはまさにそのようである。
私の大切な「とじめ」のときは、やっぱり舞台終幕の弥勒(みるく)節である。とどこおりなく迎えられたこのときに、ただただ"感謝"の思いなのだ。終幕の"うたい"がだんだんと高まり…思フダ事叶ショウリ 願ダ事シナショウリ…私の「とぅずみ」のときは、まさに今日ヌ日ヌサニシャの思いである。
私が客として足を運ぶ日ももちろんある。
お芝居やコンサートのそれも、これまた何とも言えない興奮のときだ。脇役たちが、そでをぐるりとかためた中に、堂々と登場する主役の役者やプリマドンナは、何度見てもかっこいいし、なりやまぬ拍手喝采(かっさい)に幾度も姿を見せてくれる演奏者たちには、思わずうっとりとしてしまうものである。
シネマのラストもいいものである。メインテーマの中で、ものすごい数のキャストやスタッフが勢ぞろいしている。心動かされたときほど、そこを立ち去りたくないもので、黒地に白抜きの文字が流れるスクリーンを前に、いっそのこと、このまま酔いしれて眠りこんでしまいたいと思うほどである。仕様がなく外に出ては見るものの、何だか急いで現実に引き戻されそうで嫌になる。ましてや家路を車に乗って素っ飛んで帰ってしまうのは、あまりにももったいない気がするので、遠回りしてでものんびりと歩きながら、その世界に長く浸っていたいと思うのだ。
村の祭りの後も似たような気持ちになる。テレビやラジオの音さえも耳にしてしまうと、あの祭りの太鼓の音や、心地よい人々のざわめきが、私の中から遠ざかってしまうのでは…と思えてならない。
さて、私はこのシリーズの初回の掲載に「始まる・始める」という文を書いた。何かが始まる前の、あるいは何かを始める前のぴんと張りつめたような心身の集注と緊張は、なんとも心地よい…(それに加えて)、その始まる・始める前の気持ちが心地よいのは、ごく短い時間に限る、と閉めたはずである。が、ごく短い時間に限る集注と緊張とがもたらす終着「とじめ」の酔いは、なるべく長くあってほしいものだと思える。
「始まる・始める」で幕の開いた私の日曜舞台も、ようやくフィナーレである。「もう終演?」と書きたいところだが、「ようやっと」と書く。しばらくの間、酔いしれるであろう「とじめ」の興奮と、閉(とじ)むることのできた安堵(あんど)とが、心地よい集注と緊張の「始まる・始める」へとまた結ぶことを願って…
(八重山毎日新聞「日曜随筆」1999/3/28掲載)
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