「かりゆしどー かりゆしー」と母の声。
-いってらっしゃいませ- 私の願い。
声も出せずに見送ったあの日。港へ向かう大きなトラックの後ろ姿は、何だか少しさびしそうな…でもとても誇らしげな顔をしていたっけな…。
一月も末のころ、父の描き残した絵が二枚、この家からお嫁入りをした。ある美術館への収蔵が予定されたためである。
母と私は、父の絵を手放すことになるかもしれないさびしさと、たくさんの方に父の絵をご覧いただけるうれしさの複雑な想いのなか、返事を出した。
「パパだったらどうしていただろうか…」
父がこの世から旅立って、私たち母娘(おやこ)が迷うとき、悩むとき、いつもそうして話し合ってきたように…。
「パパが今生きていたなら…」
大喜びであったであろう父の代わりに、母と私は、それこそパパが選んだであろう絵を二枚、島から旅立たせることにした。父が描き残したたくさんの作品のなかでも、母と私がとてもお気に入りの二枚である。
さて絵を"二枚"と私は書いたが、父の絵は"枚"という単位では表せないほどの大型である。専門的には一五〇号というサイズだそうだが、およそ三畳分ぐらいはあるであろうか。それに加えて父の絵は超厚塗りの油絵ときているから寸法だけでなく、重量もかなりのものである。
あのころもそうであったように、その巨大な絵はロープで結わえられ、二階の窓からお出ましになられた。
そういえば私が幼いころ、父の号令のもとに、母と私は持場であるベランダ下へつき、二階から降ろされる絵を受け取る役目を仰せつかっていた。しっかりと梱包されてはいるものの、デリケートな美術品を、いや父の大切は作品を任されるのは結構大変であったように思う。
いやそれよりも展示会やコンクールから帰ってきた作品を、二階のアトリエに戻すときの方が一大事であった。父がロープを引き上げ始めるまではしっかりと捕まえていなければならないし、引き始めた瞬間に急いで階段をかけ上がり、引き上げ作業に加わらなければならないのだ。(いっその事、わが家を建設したときにアトリエは一階にすれば良かったのに…)とぶつぶつとつぶやきながらも、割り当てられたお役目がたまらなくうれしい、幼い私であった。
作品が完成すると、家族中を呼び集めて、感想を聞きたがる父であった。それも仕上がるのは大抵が夜中で、当然のように呼び起こされ、夢うつつの状態で階段を上がった。自慢気に腕組みをしてはうろうろと角度を変えて絵をにらむ父の姿がいつになくかっこよかったなあ…。
木枠に画布を打ちつける木槌の音や、油絵の具の染み付いたアトリエのにおい、そして生まれたばかりの作品を見つめるあの父の顔…。
二枚の絵の嫁入りがよみがえらせてくれたわが家のあたたかな思い出は、涙のなかにぽろりと光る、ちょっぴりせつない宝物である。
(八重山毎日新聞「日曜随筆」1999/2/14掲載)
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