日に焼けた肌は、島に照りつける陽光の恵みを全身に蓄えてきたのか。肌の内に秘めたたくましい肉体と、時を見逃さないギラリとした眼は、まるで海に立つ仁王のようであった。そして時に、海の仁王は、少年のような無邪気で純朴な瞳をみせてくれるのである。
「冬の海は寒かった!あのころはウェットスーツなんか無いからね」。中学卒業後に就いた漁業の話は、思いも寄らない言葉があとに続いた。「とにかく海が大嫌いでさ。見るのも嫌だったね」。
23歳の時、いったんは漁業から離れ、新たな道を探し求めて島を飛び出した。まさか南の島から遙か遠い、旅先の北の地で、漁業人生への大きな転機が訪れるとは、これまた、まったく意外な展開に私は驚いた。「岩手県の釜石で、ワカメの養殖を目にした時、『これだ!』と思った。そのとたんに今度は島に帰りたくなってねぇ」。島における養殖漁業への挑戦。でも歩み出しは、たび重なる失敗の連続だった。
さて、自給自足ほどの展開だった八重山の水産業は、明治中期、糸満からの専業漁民の定住により、本格的なものとなった。明治39年(1906)からは海の祭祀ハーリーも執り行われるようになり、今年は、百年目の節目の年となる。
しかし、百年余りの歳月は、八重山の海へ、またそこに生きる漁業者たちへ、危機的状況を招くことにもなった。ことに漁業資源の減少は著しいという。「昔はおもしろいほど捕れたよ。すぐその辺りは、ウニの漁場だったしね」。多くの海の幸の恩恵をたまわり、大いなる潤いを与えてくれた美海…かつての八重山の海をつかみ取るように、池田さんは指さしながら静かに語り続けた。
「八重山の漁業は、長い間、捕るだけの漁業が中心だった。疲れきった八重山の海を、休ませることもしないと」。失敗から始った新たな挑戦『作る・育てる漁業』は現在、モズク、シャコ貝、ヤイトハタ、と着実な成果をあげている。また従来の捕る漁業は、伝統漁法である「小型定置網漁」で少しばかりの糧とし、計画的な複合的漁業で、安定・安心できる漁業経営を目指している。
そしてこの島、この海ならではの『魅(観)せる漁業』ブルーツーリズム構想。
八重山の海が、シャコ貝が所狭しと咲き誇る、サンゴ礁のブルーラグーンを取り返すその日まで、海と人との交わりの形を、池田さんは模索し続けていく。
(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.6月号掲載)
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