彩 思 い [ ayaumui ]

『彩思い(あやうむい)』 

ブログ『彩思い』は新城音絵の文筆記録のページです。
オフィシャルブログは『南島游行』へ移行いたしました。

〔やいま11〕 黒島剛(くろしま つよし)

 そっと目をとじると、心の中に蘇る鮮烈な映像がある。白い神衣に身をつつんだ司の神々しい背姿。誇らしげな男衆の顔に、歓喜に満ち満ちた女たちの声。厳かで清らかな聖なる時間・空間に、まるでわが身をおいているかのような臨場感と緊迫感に包まれたことを今でもよく想い出す。八重山のまつりシリーズ第一段『島々かいしゃ(ビデオ/平成8年制作)』との出会いは、まさに感動の瞬間であり、その巡りあいこそ、黒島剛さんの映像世界との、初めての時間であった。

 「物心ついたころから、テレビ・映像の世界に関心があってね、でもあのころはまだNHKだけでねぇ…。」音楽に夢中だった中学時代…ギターを爪弾きながら静かにたぎらせてきた想いを胸に秘め、一人、島を出た。宮崎での高校時代を経て、東京のプロダクションで撮影修行を重ねる。そして現場で積み上げられた技術と、都会で磨かれた感覚を手に島へ戻ったのは二十代前半。石垣ケーブルテレビ勤務を経て、30歳で独立を果たした。

 「もっと広い地域の皆さんに、自分の映像をお伝えしたい一心でね。」今でこそ日本最南端のプロダクションであることが何よりもの魅力であろうが…「こんな小さい島にプロダクションがあるの?という具合で、信頼を得るまでは大変だったよ。」と黒島さんは設立当初を思い返した。

 島々の大自然をとらえるカメラは空撮から水中にまでわたり、その南国の映像素材は日本の夏を彩るCM制作へと広がりを見せる。また琉球朝日放送、日本テレビの通信員として、まさに島の「今」を伝える報道の役目も担っている。映画やテレビ番組のロケ撮影は八重山の島々に止まらず、中国やアフリカなど海外へも出向き、また那覇マラソンでは先頭走者をとらえるメインカメラマンをつとめるなど、広くその名を知られるカメラマン、プロダクションとなった。

 [Vision Factory 映像工場]の歯車が回り始めてから、今年で16年を重ねる。十年ほど前からは、携列会社の八重山舞台による舞台監督や舞台演出をも手がけるようになり、今ではライフワークの一環となっている。

 「何も無いところから創りだす作業が好きです。」と語る黒島さん。一人でも多くの方に伝えたい! 八重山の後世に残したい!という夢と共に、今日も新たな作品創りに一路邁進する。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2007.1、2月号掲載)

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2007.04.17 カテゴリー: 11 やいま[八重山人の肖像] | 個別ページ | コメント (1)

〔やいま10〕 宮平康弘(みやひら やすひろ)

 「島、まさに島であること!」それはゆったりとした間合いの、独特な口調の中で、鐘の音のように響いてきた美しく力強い言葉であった。

  宮平康弘さんが現社長をつとめる「南の美ら花ホテルミヤヒラ」は、八重山の観光産業の中核を担う、地元資本の施設として、長い歴史を持つ老舗中の老舗。今年で創業53周年になる。前身の「宮平旅館」の創立は、沖縄県がまだ米軍の統治下にあった昭和28年。旧護岸通りに、鉄筋コンクリートブロック造りの2階建てでお目見えした。繁華街・桟橋前という立地のよさ、当時ではめずらしい風呂付きの部屋、八重山らしい料理の提供などで、宮平旅館は大繁盛したという。

  「宮平旅館」はその後、埋立地である美崎町に移転、「宮平観光ホテル」「ホテルミヤヒラ」、そして現在の「南の美ら花ホテルミヤヒラ」へと改称。増築、規模の拡大をはかり、わずか16室だった客室数は、今や158室となった。

  さて康弘さんが経営に携わるようになったのは沖縄復帰の翌年、昭和48年からである。社長に就任してからは18年目となり、今では八重山を代表する経済人、そして観光産業分野のみならず、八重山に欠くことのできない指導者であり、指揮者となった。

  ラウンジの柔らかなソファーに、お背の高い身体をあずけるように沈み込ませて、康弘さんは静かに語り続ける。「朝の早い時間は、来客や電話で寸断されないでしょ!読んだり書いたりするのにもってこいの時間でね。最近は早寝早起きですよ。でもそろそろ若いころの酒の付けが、身体にくるんじゃないかなぁと思ってねぇ…。」250名の従業員をかかえる頭の、とてもくつろいだ素の表情に私はホッとした。と、思えば、「商売・会社経営は、明日どうなるかわからない世界だからね。こわいですよ。厳しいですよ!」と、今を確実に捉えようとする鋭い眼光を見せた。

  書き綴ってこられたエッセイを始め、和歌、小編、提言、旅行記、インタビューや座談会などをまとめた出版物は、これまでに五冊を数える。八重山(やいま)にたくす想い、こめる願いに、八重山(やいま)・島への愛の深さ、濃さを熱く感じるものだ。

  広い視野、様々な角度・視点から見つめる、その「八重山らしさ」こそ、長い時を生き抜く「島の命」であり、宮平流のおもてなしの心となるのであろう。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.12月号掲載)

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2007.04.17 カテゴリー: 11 やいま[八重山人の肖像] | 個別ページ | コメント (0)

〔やいま9〕新城弘志(あらしろ ひろし)

 ハレの日の役目を、平らかに終えた登野城字会の旗頭。私は幸運なことに、繕(つくろ)いの時をじっと待つ「オオゴチョウ 」との再会に恵まれたのである。それは年に一度の豊年祭いに仰ぎ見ることのできる村の象徴。澄みきった青天に映え、夏の宵闇に灯る旗飾りを前に、祭りの日の純真で敬虔な、あの心持ちになった。

  「夜も遅くまで、約一ヶ月余りの時間をかけますでしょう…まるで娘を嫁に出す時のような心境ですよ。」修行中だった十八歳のころ、字会の長老や役員たちに交じって携ったのが始まり。二十歳を迎え「天川屋木工所」として独立したのを機に、旗頭製作の全てを任されるようになった。

 幼い頃から手仕事が好きだった新城弘志さんは、いくつもの顔をお持ちの、実に多才な方である。先ず、雅石(がせき)の雅号で活躍する書家、篆刻師、そして画家・絵師である。またアンガマの面作りをはじめ、弥勒面、獅子頭、仏像などの修復・復元を手がける彫刻家・仏師でもある。茶箪笥やお仏壇などの家具を作る指物師でもあり、小物を扱う木工職人でもあろう。「この家も自分で造ったんですよ。八ヶ月ほどかかったけどね。」そんな手業(てわざ)と、美の世界の達人曰く「細かい仕事が続きますでしょう。外に出て、緑に囲まれていると、眼が癒やされるんですよ。」そう、新城さんは言わずと知れた盆栽作家の第一人者でもあるのだ。

 さて、ライフワークの一つである旗頭製作は今年で51年目を迎える。「日頃、農作業で肉体労働をしていた昔の若者と、今の若者とでは、力が違うから、紙や針金の素材、塗料の重ね具合など、重量を考えて工夫しないと…。」また時代の変化は、高い建物の狭間におきる不規則なビル風や、張りめぐらされた電線により持ち手を悩ませる。そして、私たち観衆からすると、空の広さは限定され、寸断されてしまった…。

 時の移り変わりの中で、新城さんがいつの時代もこだわり続けてきた旗頭の立体感。「どの角度から、どう見上げても、見栄えのする、また重々しい姿形をめざしたい。」

 守り伝える部分と、新しい素材や技法を取り入れ、仕掛けや工夫を惜しみなく試みる部分との両輪により、新城さん独自の拵え(こしらえ)方を、日々追い求め、掘り下げるのであろう。

 *「オオゴチョウ (黄紅蝶)」とは、登野城字会に伝わる旗頭・旗飾りの一つ。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.11月号掲載)

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2007.04.17 カテゴリー: 11 やいま[八重山人の肖像] | 個別ページ | コメント (0)

〔やいま8〕 比嘉康雅(ひが やすまさ)

 二十年ほど前まで、穏やかで静かな護岸端だったとは、とても想像がつかないほど、大通りを行き交う車の群れは、切れ間なく、絶え間なく続いていた。潮の香りをつれて南からそよいでくる、やさしい海風だけが、その記憶をとどめてくれているような、そんな気さえしていた。

 比嘉家の二番座、海をまっすぐに見据える仏壇のトートーメー、その傍らに並ぶ年老いたご夫婦のお写真。家内をじっと見守っている。

 「元々、祖父と祖母は山原出身で、祖父は七歳、祖母は九歳の時に『糸満売り』として、糸満を経由して石垣に入ってきたんですよ。」イチマンウイ(糸満売り)あるいはヤトイングヮー(雇い子)、コーイングヮー(買われた子)などと呼ばれた年季奉公の少年少女たち。「ヤトイングヮーはとても辛く、厳しい歴史です。でもそれで生きながらえることができたという面もあるのではないですかね…」。時々見上げるようにして、高くかかげられたお二人のお顔と見交わす康雅さん。きっとそうであって欲しい…という念い(おもい)を感じずにはいられなかった。

 高校卒業後、一本釣りを主に、漁師の道を歩み始める。祖父から父へと受け継がれた海に生きる魂は、技となり、知恵となって康雅さんの肉体へも刻み込まれていった。また、八重山漁協青年部での活動、第二十六回全国漁村青壮年婦人活動実績発表大会への出場、八重山漁業協同組合・組合長の任を経て、沖縄県漁協青壮年部連絡協議会会長や、全国漁青連理事の役も長年つとめてきた。

 「海のある県には、ほとんど行きましたよ。見聞を広めることの大切さ…海人も、井の中の蛙にならないようにね…」。日本最南端の、漁業者の生の声を、自ら出向いて積極的に発信してきた。

 そして今、たどり着いたのは漁業と観光との融合。看板の【海業(うみわざ)観光】の力強い言葉が目に飛び込んでくる。実際の操業で使用している漁船に乗り、亜熱帯の海で鍛えられた「海業(技)」を舵に、ウミンチュ(海人)体験ができる究極の海遊び。まるで過ぎ去った記憶を秘め、大通りを突っ切ってきた、あの海風のように、島の漁師ならではの心あたたかな観光の形に出会えた気がした。

 培われた海人魂は、諸々の荒波を乗り越え、今、新しい海の道を切り開こうと燃える。海の男の眼差しを見た。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.10月号掲載)

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2007.04.17 カテゴリー: 11 やいま[八重山人の肖像] | 個別ページ | コメント (0)

〔やいま7〕 上里直英(うえざと なおひで)

 ちょうど、八重山商工高校野球部が、春夏、甲子園連続出場の切符を手に入れた明くる日であった。私は興奮冷めやらぬ心持ちで、上里直英さんをお訪ねした。今、まさに八重山中が、甲子園への想いをたぎらせている真っ只中とあって、八重山野球連盟の会長との対面に、私はひときわ特別な心境で赴いた。

 「うらやましい! 私たちのころは、今のように少年野球が盛んじゃなかった。もちろん目指してはいるけど、甲子園というのは、雲の上の、またさらに上にあるものだったからね」。話題は、上里さんが『甲子園』を夢見た少年時代へとさかのぼる。農林高校で、野球にひたすらに打ち込んだ三年間、また高校卒業後、現在に至るまで、長年つとめてきた審判員。野球のルールに、あまり明るくない私の素人質問に「プレーするのとはまた違って、審判は奥の深いものですよ。」と、春・選抜の商工球児の好プレーをひもときながら、立ち上がり、実際に体を動かしては、とても丁寧に教えてくださった。

 さて、そのような審判員の育成や派遣などをも含む、野球の底辺拡大と技術の向上につとめてきた八重山野球連盟は、文字通り、八重山野球の全ての大会を主催、後援し、昭和23年の設立以来、八重山野球界発展の源となってきた。

 「戦後の混沌とした社会情勢の中で、島を元気づけよう!という先輩方の想いが結集したんですね」。当初、わずか5〜6チームだった職域大会も、今では約90チーム(社会人チーム全体で)、少年(学童)、中学、高校のチームを合わせると、約120チームを数えるという。年間の試合数は合わせて約六〇〇試合。「石垣は、年中野球ができるでしょ。土日は、ほとんど試合が入ってますよ!」と上里さん。高校野球はテレビに釘付けでそれこそ熱中する私だが、想像以上の、八重山人の野球熱に、私は仰天した。それと同時に、五八年前、信念を抱き、連盟の設立に力をそそがれた、島の先輩方のご尽力に、ただただ胸が熱くなった。今では、八重山の野球人口、約二千名。野球を愛するその想いは、時代をこえ、しっかりと引き継がれている。

 そして九代目会長の上里さんは、平成十四年からは、八重山支部初の沖縄県野球連盟副会長にも就任。

 「野球が、好きなんですよね!」。

 はにかむように、でも力強く話された言葉が、何より心に残っている。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.8月号掲載)

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〔やいま6〕 砂川昌順(すながわ しょうじゅん)

 一九八七年十一月「大韓航空機爆破事件」。実行犯の一人、金賢姫が自殺防止用の白いマスク姿でタラップから降ろされた時の映像は、今でも多くの人の脳裏に焼付いていることだろう。

 当時、独自の情報網を駆使し、犯人金賢姫の追跡と拘束に、命をかけて挑んだ一人の日本人外交官がいた。一九八六年から、在バーレーン日本国大使館に赴任していた砂川昌順氏、その人である。

 「私は宮古は城辺の砂川(うるか)の血ですよ。姉兄、そして私も生まれて三ヶ月間だけ、宮古島で過ごしています。宮古の地で生を受ける、これは父と母の宮古の地へのこだわりだったのでしょう」。とてもさわやかで、気さくに話される昌順さんと、あの悲劇とはとても重ねようのない、それは清々しい初対面の時であった。ピリピリとこわばって、半ば身構えていた私の身体は、一瞬にしてほぐれたかのように思えたのである。

 公務では成し得なかったところを単独、独断で追跡。幾度となく危機一髪のところを切り抜けてきた。外務省辞職後は諜報機関の影が完全に消え去るまで、三畳一間の隠遁生活を余儀なくされたという。想像するだけで息が詰まりそうで、その精神の消耗は決してはかり知れない世界なのだろうと、私は再び肩に力が入った。一つの節目・区切りを迎えたのは二〇〇三年の秋、事件の真相を『極秘指令(金賢姫拘束の真相)』に書きしるし、身をひそめた生活に終止符をうった。

 島、そして両親との十八年ぶりの再会、その時を思い返す彼の頬を、大粒の涙がつたった。「宮古、うるかの血がそうさせるんですかね…」。向かい合うものにひたすらに一途な性格、それゆえに抱かせてしまった、息子を想う両親の、苦悩の歳月。こらえることなくあふれ出た昌順さんの涙に、心が少し安んじて、いつしか私も涙を重ねていた。

 その後、データベース開発や翻訳をてがける「(株)デプロ」を設立。現在も世界中を駆け巡る。また子会社の「(株)NetLive」では、インターネットによるライブ中継で沖縄出身の若手音楽家を惜しみなくバックアップしている。

 「決して、島社会に固執することなく、いつ時も島と外との交わり、広がりを大切にしたい」。国と国とを結ぶ重責に身を投じてきた彼だからこそ、島への想いもまた、格別に熱くたぎるのであろう。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.7月号掲載)

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2007.04.17 カテゴリー: 11 やいま[八重山人の肖像] | 個別ページ | コメント (0)

〔やいま5〕 池田元(いけだ はじめ)

 日に焼けた肌は、島に照りつける陽光の恵みを全身に蓄えてきたのか。肌の内に秘めたたくましい肉体と、時を見逃さないギラリとした眼は、まるで海に立つ仁王のようであった。そして時に、海の仁王は、少年のような無邪気で純朴な瞳をみせてくれるのである。

  「冬の海は寒かった!あのころはウェットスーツなんか無いからね」。中学卒業後に就いた漁業の話は、思いも寄らない言葉があとに続いた。「とにかく海が大嫌いでさ。見るのも嫌だったね」。

 23歳の時、いったんは漁業から離れ、新たな道を探し求めて島を飛び出した。まさか南の島から遙か遠い、旅先の北の地で、漁業人生への大きな転機が訪れるとは、これまた、まったく意外な展開に私は驚いた。「岩手県の釜石で、ワカメの養殖を目にした時、『これだ!』と思った。そのとたんに今度は島に帰りたくなってねぇ」。島における養殖漁業への挑戦。でも歩み出しは、たび重なる失敗の連続だった。

 さて、自給自足ほどの展開だった八重山の水産業は、明治中期、糸満からの専業漁民の定住により、本格的なものとなった。明治39年(1906)からは海の祭祀ハーリーも執り行われるようになり、今年は、百年目の節目の年となる。

  しかし、百年余りの歳月は、八重山の海へ、またそこに生きる漁業者たちへ、危機的状況を招くことにもなった。ことに漁業資源の減少は著しいという。「昔はおもしろいほど捕れたよ。すぐその辺りは、ウニの漁場だったしね」。多くの海の幸の恩恵をたまわり、大いなる潤いを与えてくれた美海…かつての八重山の海をつかみ取るように、池田さんは指さしながら静かに語り続けた。

 「八重山の漁業は、長い間、捕るだけの漁業が中心だった。疲れきった八重山の海を、休ませることもしないと」。失敗から始った新たな挑戦『作る・育てる漁業』は現在、モズク、シャコ貝、ヤイトハタ、と着実な成果をあげている。また従来の捕る漁業は、伝統漁法である「小型定置網漁」で少しばかりの糧とし、計画的な複合的漁業で、安定・安心できる漁業経営を目指している。

 そしてこの島、この海ならではの『魅(観)せる漁業』ブルーツーリズム構想。

 八重山の海が、シャコ貝が所狭しと咲き誇る、サンゴ礁のブルーラグーンを取り返すその日まで、海と人との交わりの形を、池田さんは模索し続けていく。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.6月号掲載)

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2007.04.17 カテゴリー: 11 やいま[八重山人の肖像] | 個別ページ | コメント (0)

〔やいま4〕 石垣久雄(いしがき ひさお)

 小学生のころ、「こども博物館 夏休み特別講座(市立八重山博物館主催)」は、私にとって夏のお決まりのスケジュールだった。連日の激暑・炎暑の中、あのひんやりとした博物館独特の空間で、ちょっぴりおませな時間にうっとりしたことを、今でもよく思い出す。

何と言っても私のお気に入りのプログラムは、石垣久雄先生のお祭りや歴史のお話し。何だか難しくて、肩のこりそうなお勉強も、あのひょうきんで、コミカルな久雄先生だと、それはまるで種子取祭の狂言のよう…。私は、その時に配られた何枚かのプリントを、綴りの中から久しぶりに引っ張り出して、遠い夏の記憶に思いを馳せていた。

 竹富島生まれの石垣久雄さんは、琉球大学の史学科を卒業後、小浜小中学校を振り出しに、県立八重山高等学校校長に至るまで、38年間の教職人生を歩まれた。また、八重山各地の歴史や祭事に関する論文の発表も、数多く重ねておられる郷土史家でもある。

 「専門は中学・高校の日本史。でも小浜小中では、技術も音楽も教えたよ。ところが専門知識がないから、疑似餌作りをして、イカを5匹釣ってきたら5点!。また小浜節を唄えたら5点!という具合。私も若かった。子供達と体当たりの日々でしたよ」。それはまさしく生きる力を育てる場、そして島を愛する心を育む時間…。今、まさに見直されている「地域に根ざした教育」「ゆとりある教育」の原点を思わせるようなお話に、私は夢中になって聞き入った。

 私の中に抱く、もう一つの久雄先生、それは生まれ島、竹富島の『種子取祭』での「祭りの顔」。竹富島は玻座真村に伝わる民俗芸能を受け継がれるお一人でもある。忍苦の暮らしを強いられてきたであろう島人たちが紡ぎ出し、織りなした珠玉の歌謡、多彩な舞踊・狂言。そして感謝と祈りの心。「昔と違って、今は農業で暮らしているわけじゃない。でも不思議だよ。祭りの日の、神聖で荘厳なあの気持ちだけは変らない。それこそ大切に受け継いでいきたいものだね!」。

 島の移り変わりも激動のこの時代だからこそ、少し立ち止まってみる、そしてこの八重山が、新たに刻み込む足取りを、しっかりと見極められる人間でありましょう!と、私はお約束を交わした。

 「ひいては、島の明日を担う子供たちのため、これは私たち大人に課せられた、重大な役目ですからね」。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.5月号掲載)

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〔やいま3〕 大濱永亘(おおはま えいせん)

 前夜、夢中で読み耽った『オヤケアカハチ・ホンカワラの乱と山陽姓一門の人々』(大濱永亘さん最新の著書)

 私が、オヤケアカハチの生誕の地と言われる波照間島をルーツに持ち、また一方で、それに敵対する長田大翁主の血筋(長栄姓一門)だからであろうか。群雄の英姿を巡らせては、一人興奮していた。

 熱くたぎる血の騒ぎを抱きながら、大浜永亘さんとの初対面を前に緊張していた私は、出しなに、わが家にかろうじて伝わる長栄姓一門の系図をそっと拝借し、持参することにした。先祖代々のお力を頂戴したかったからであろうか…。

 がっしりと、恰幅のよい永亘さんは、長年、県立八重山商工高校で教鞭を執る傍ら、考古学研究のため、八重山の島々を踏査。フィールドワークで得た考古学的資料を大きな柱に、八重山の歴史や文化を一つひとつ紐解く、郷土史研究家のお一人でもある。

 「学校で教えているのは“さんみん”(計算)ばっかりさぁ」。朗らかに話された言葉に耳を疑った。てっきり社会科の先生だと思い込んでいた私は、著書や研究論文、これまでにまとめられた膨大な資料を前にとにかく仰天したのである。

 さて遺物や遺跡を通じて、過去に生きた人々と対面・対話できる…そんな魅力を秘めた考古学との出会いは、永亘氏が小学六年生のころにさかのぼる。石垣小学校の校庭で見つけた一つの石。丹念に磨かれた、かたくて手ごろな一点の「石斧」との出会いこそが、永亘氏が考古学の世界に生きる原点となった。

 また、中学二年生のとき、八重山初の本格的な考古学調査となった「早稲田大学八重山学術調査団」との運命的な巡り合わせが訪れる。山原貝塚の発掘調査が始ることを新聞で知った永亘少年と友人は、調査団の宿舎を訪ね、調査への参加を直接交渉。その充実した一週間は、その後の研究へと繋ぐ原体験となった。そして自らのルーツ解明をきっかけに手がけた家系一門の系図づくりも、八重山の歴史の謎を解く大きなカギとなっている。

 「何事にも情熱をかたむけ、こつこつとやり続けること、前向きに努力することで、必ず道は開かれる!」。

 五十年前、小学校の校庭で、小さな手に握りしめた、一つの石斧と強い願望。

 『汝の立つ所を深く掘れ!』。ひたむきに追い求めてきた少年は、今日もまた掘り続ける。甘き泉を求めて…。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.4月号掲載)

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2007.04.17 カテゴリー: 11 やいま[八重山人の肖像] | 個別ページ | コメント (0)

〔やいま2〕 石垣佳彦(いしがき よしひこ)

 それはまるでレンズのような大きな目に吸い寄せられるようだった。次から次へと連なる話は、身振り手振りも合わさって、さらに、さらに引き込まれ…いつしか自分の役目をすっかり忘れて、“石垣佳彦劇場”に夢中になっていた。

 「石垣カメラ店」は、石垣さんが21歳のとき、崎山写真館での約7年間の見習い修行を経て、独立を果たした店である。「早くに父が亡くなったものだから、後に続く弟妹たちをどうしても高校までは行かせたくてね。早々、PTAしながら必死に働いたよ」。生活のため、弟妹を養うために、と決意した独立の道も、今年、47年目を迎えることとなる。新しく開かれる離島旅客ターミナルによるまちづくりに、今、新たな期待と希望を抱いている。

 石垣さんは「写真屋さん」ですか、それとも「写真家さん」ですか、と尋ねた私に、「まぁ、いわゆる島の写真屋(やー)であり、そして一人の写真家であるな」と答えられた。絵画や彫刻とは違い、「写真」というアートは極めて瞬間的な表現芸術だと勝手に思い込み、半ば決め込んでいた私に「シャッターを切るその瞬間は一瞬かもしれない、でもね、例えば潮のいいころ合い待つ時間、光の射込む角度を見極める感覚、いわゆる自然と対話できる知識、そして運を待つ辛抱強さ、あの一瞬にはとてつもなく長い時間がかけられているわけだ!」。眩しく焚かれる閃光のごとく、衝撃的だった。石垣さんの生きてこられた人生分の時間が、あの一瞬に込められ、秘められている、と思うと私は興奮した。感動した。

 「父は、厳しい人だったねぇ・・。島の自然とのつき合い方、そして精神力も鍛えられたね。早くに逝ってしまったのは、私に生きる力を教えるだめだったのかなぁ」。父親仕込みの逞しさ、そして、ひにくにも父親代わりをすることで得た生きる力は、その後のボーイスカウト活動に活かされる。隊長をつとめた35年間によって、その感覚はさらに研ぎ澄まされ、そしてまた「あの一瞬」へと蓄えられたのであろう。

 あの真夏の鋭い陽光、潮鳴りのさざめく波間の輝き、ある時は風の色やにおい、そこに生きる人々の声までをも伝えてくれる石垣佳彦さんの世界。その眼(まなこ)の差す光に照らし出される次なる瞬間が、待ち遠しくてたまらない。

(情報やいま「八重山人の肖像」 2006.3月号掲載)

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