彩 思 い [ ayaumui ]

『彩思い(あやうむい)』 

ブログ『彩思い』は新城音絵の文筆記録のページです。
オフィシャルブログは『南島游行』へ移行いたしました。

〔日曜随筆8〕 とじめ・とじむる そして・・・

  「閉-とじめ-」はたす・すます・なしおえる・おえること・とじむること、とある。
 
 何かの閉(とじ)めのとき、または何かを閉むるときの充実感は、何分にも替え難い絶頂のときである。またその充実時間の生む解放感は、心身の疲労さえも明日の力へと変えてしまうのだから不思議なものだ。「終わり良ければ…」とはまさにそのようである。
 
 私の大切な「とじめ」のときは、やっぱり舞台終幕の弥勒(みるく)節である。とどこおりなく迎えられたこのときに、ただただ"感謝"の思いなのだ。終幕の"うたい"がだんだんと高まり…思フダ事叶ショウリ 願ダ事シナショウリ…私の「とぅずみ」のときは、まさに今日ヌ日ヌサニシャの思いである。
 
 私が客として足を運ぶ日ももちろんある。
 お芝居やコンサートのそれも、これまた何とも言えない興奮のときだ。脇役たちが、そでをぐるりとかためた中に、堂々と登場する主役の役者やプリマドンナは、何度見てもかっこいいし、なりやまぬ拍手喝采(かっさい)に幾度も姿を見せてくれる演奏者たちには、思わずうっとりとしてしまうものである。
 
 シネマのラストもいいものである。メインテーマの中で、ものすごい数のキャストやスタッフが勢ぞろいしている。心動かされたときほど、そこを立ち去りたくないもので、黒地に白抜きの文字が流れるスクリーンを前に、いっそのこと、このまま酔いしれて眠りこんでしまいたいと思うほどである。仕様がなく外に出ては見るものの、何だか急いで現実に引き戻されそうで嫌になる。ましてや家路を車に乗って素っ飛んで帰ってしまうのは、あまりにももったいない気がするので、遠回りしてでものんびりと歩きながら、その世界に長く浸っていたいと思うのだ。
 
 村の祭りの後も似たような気持ちになる。テレビやラジオの音さえも耳にしてしまうと、あの祭りの太鼓の音や、心地よい人々のざわめきが、私の中から遠ざかってしまうのでは…と思えてならない。

 さて、私はこのシリーズの初回の掲載に「始まる・始める」という文を書いた。何かが始まる前の、あるいは何かを始める前のぴんと張りつめたような心身の集注と緊張は、なんとも心地よい…(それに加えて)、その始まる・始める前の気持ちが心地よいのは、ごく短い時間に限る、と閉めたはずである。が、ごく短い時間に限る集注と緊張とがもたらす終着「とじめ」の酔いは、なるべく長くあってほしいものだと思える。
 
 「始まる・始める」で幕の開いた私の日曜舞台も、ようやくフィナーレである。「もう終演?」と書きたいところだが、「ようやっと」と書く。しばらくの間、酔いしれるであろう「とじめ」の興奮と、閉(とじ)むることのできた安堵(あんど)とが、心地よい集注と緊張の「始まる・始める」へとまた結ぶことを願って…

(八重山毎日新聞「日曜随筆」1999/3/28掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 16 随筆/[日曜随筆] | 個別ページ | コメント (0)

〔日曜随筆7〕 二枚の絵の嫁入り

 「かりゆしどー かりゆしー」と母の声。
 
 
-いってらっしゃいませ- 私の願い。
 
 声も出せずに見送ったあの日。港へ向かう大きなトラックの後ろ姿は、何だか少しさびしそうな…でもとても誇らしげな顔をしていたっけな…。

 一月も末のころ、父の描き残した絵が二枚、この家からお嫁入りをした。ある美術館への収蔵が予定されたためである。
 母と私は、父の絵を手放すことになるかもしれないさびしさと、たくさんの方に父の絵をご覧いただけるうれしさの複雑な想いのなか、返事を出した。
 「パパだったらどうしていただろうか…」
 父がこの世から旅立って、私たち母娘(おやこ)が迷うとき、悩むとき、いつもそうして話し合ってきたように…。
 「パパが今生きていたなら…」
 大喜びであったであろう父の代わりに、母と私は、それこそパパが選んだであろう絵を二枚、島から旅立たせることにした。父が描き残したたくさんの作品のなかでも、母と私がとてもお気に入りの二枚である。


 さて絵を"二枚"と私は書いたが、父の絵は"枚"という単位では表せないほどの大型である。専門的には一五〇号というサイズだそうだが、およそ三畳分ぐらいはあるであろうか。それに加えて父の絵は超厚塗りの油絵ときているから寸法だけでなく、重量もかなりのものである。
 あのころもそうであったように、その巨大な絵はロープで結わえられ、二階の窓からお出ましになられた。

 そういえば私が幼いころ、父の号令のもとに、母と私は持場であるベランダ下へつき、二階から降ろされる絵を受け取る役目を仰せつかっていた。しっかりと梱包されてはいるものの、デリケートな美術品を、いや父の大切は作品を任されるのは結構大変であったように思う。
 いやそれよりも展示会やコンクールから帰ってきた作品を、二階のアトリエに戻すときの方が一大事であった。父がロープを引き上げ始めるまではしっかりと捕まえていなければならないし、引き始めた瞬間に急いで階段をかけ上がり、引き上げ作業に加わらなければならないのだ。(いっその事、わが家を建設したときにアトリエは一階にすれば良かったのに…)とぶつぶつとつぶやきながらも、割り当てられたお役目がたまらなくうれしい、幼い私であった。
 
 作品が完成すると、家族中を呼び集めて、感想を聞きたがる父であった。それも仕上がるのは大抵が夜中で、当然のように呼び起こされ、夢うつつの状態で階段を上がった。自慢気に腕組みをしてはうろうろと角度を変えて絵をにらむ父の姿がいつになくかっこよかったなあ…。


 木枠に画布を打ちつける木槌の音や、油絵の具の染み付いたアトリエのにおい、そして生まれたばかりの作品を見つめるあの父の顔…。
 
 二枚の絵の嫁入りがよみがえらせてくれたわが家のあたたかな思い出は、涙のなかにぽろりと光る、ちょっぴりせつない宝物である。

(八重山毎日新聞「日曜随筆」1999/2/14掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 16 随筆/[日曜随筆] | 個別ページ | コメント (0)

〔日曜随筆6〕 読書好き? 本好き?

 私の何よりものストレス解消法と元気増進法は本屋巡りであります。
 
 先立つものが伴っているならばなおさら、それはそれは満ち足りた気分になるのでありましょうが、そうでなくとも本屋巡りは、この上ない幸福(しあわせ)時間なのであります。
 
 本屋さんに出向いたとき、つい表紙がめくれたり、折れ曲がったりして、少し不満気に、そして不安気にこっちを見ている道路沿いの週刊誌たちがいます。それはまるで泥んこ遊びに夢中になっていた少年が、夕暮れどき家路につくころの表情とどこか似ていておもしろいもので…また本屋さんに入るとかすかに感じる紙の匂いや、本棚にお行儀よく並んではだれかを待ちわびているような本たちの表情が、私をわくわくさせてくれるのです。
 今が主役!と、はつらつとした新書たちは、まるでピカピカのランドセルを背負った新一年生や、晴れ着に身を包んだ新成人の若者のようで頼もしく…奥の方でどっしりとかまえた歴史物は、まるで本屋の主のようで、たくましく見えるものです。


 さて本屋巡りで私のいちばんのお楽しみごとは装丁(装訂・装幀)観賞です。いえ、「鑑賞」と言った方が適切かもしれません。出版作業の最終の仕上げであり、まとめである装丁とは、すなわち表紙・見返し、扉など、書物の形式面の調和美を創り上げる技術だとあります。
 
 商品である書籍は、小売店であろうと、購入した読者であろうと、結局のところ大方は本棚に並べられてしまうのですから、本の「背」こそが本の「顔」だと思うのです。顔を見て、目があって手にとった本の全体が内容を反映させる雰囲気を持ち、かつ想像力をかき立ててくれるものだとなおさら好いでしょう。
 でも本の内容とは関係なく、装丁とはそれだけでひとつの作品であり、芸術品であると思えます。
 たとえば「藍とえび茶」や「墨に紅」のような大胆でかつ落ち着いた色使い、またさり気なく上品で、でもしっかりと存在感のある字体が私好みであります。無駄な「てかり」のない上質の和風の紙は、日本語をより美しく引き立ててくれて趣があるものです。
 扉の色やその素材は、まるで和服の裾裏についた八掛(はっかけ)のようで、襟元やお袖内からちらちらとのぞく色気を感じ、ぞくぞくとするものです。


 さて、本好きの私は、決して根っからの読書好きではありません。情報収集は最近ではもっぱらパソコンに頼ってしまっているほどです。それはそれでとても便利で、たよりのよい道具なのですが、美術鑑賞にはどうしても事足りず、ましてや、めまぐるしいスピードの通信世界で、液晶の画面とにらめっこしている時間が長ければ長いほど、紙や活字のぬくもりが恋しくて、いとしくて仕方がないものです。
 
 もし先立つものがぜいたくに伴うときが訪れるのならば、お部屋の本棚に大切に並べた本たちを、まるでお気に入りの絵と向かい合うように、ぼーっと眺めては、きれいに着飾った本たちを、そして見事な装丁師の技をゆっくりと、ゆったりと味わいたいと思う今日このごろであります。

(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/12/27掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 16 随筆/[日曜随筆] | 個別ページ | コメント (0)

〔日曜随筆5〕 はじっこ三昧

 十日ほど前だっただろうか、出張から戻った母がいつものようにお土産を買ってきてくれた。長崎からのカステラである。特別好物ではないものの、スポンジの下に敷かれたカラメル色と、そこにのぞくあのザラメの存在に私は毎度心をひかれてしまう。できるものならば、その部分だけを贅沢に味わいたいものだと思うのだが、あの薄い紙に残りついたカラメル味を、丁寧にこぞぎ取っていただくところが何ともいえない魅力なのかもしれないと思えるようになった。

 カステラのザラメは論ずるまでもなく、それに始まって私の「食」の基準はどうも「はじっこ」にあるようである。

 いただき物の羊羹(ようかん)が長い間冷蔵庫の番をしていることがよくある。小豆色の甘い固まりは、待ちきれず、我慢できずに端の方から白く透明のベールを纏(まと)う。冷蔵庫の中で姿を変えた羊羹はまるで「きんつば」擬き(もどき)である。特にはじっこのお砂糖色の固まりはたまらなく美味しいので、ついつい待たせてしまう。変身前の羊羹よりも擬物(まがいもの)のきんつばの方が趣があるのだから不思議である。
 
 海苔巻きのはじっこもご機嫌である。
 顔を突き出したような干瓢(かんぴょう)や卵は、ご飯の割に豪華なのだから…。
 
 法事ごとの霊供や、十六日祭のお重箱(ズブグ)の中には端がきれいに切り揃えられた揚げ物や煮物がお行儀よく並んでいる。お役御免で切り落とされた方は、不格好で肩身が狭そうにしているが、そちらの方がはるかにおいしいのである。
 私は台所でこそこそとつまんでいるが、あれは台所を任せられた女たちの特権である。

 お祝ごとの羽ハンビンのはじっこも最高である。おめでたく広げた羽の部分は一段に「かりっ」と揚がって実におめでたい味である。

 私の豆腐好きにも頑固なこだわりがある。
 特に木綿豆腐ははじっこに限ると思う。粗い布目の跡はお豆腐やさんの製造段階が見えるようで楽しくなり、お豆腐のたくましい栄養分が凝縮されているようでいい気分になる。
 
 毎朝お目見えの卵焼きや目玉焼きも、焼き色の濃いはじっこの部分は特に香ばしく格別である。

 クレープやポーポーもまた同じである。

 ただ、その「はじっこ」というのは数や量に限りがある。
 いわば限定品であるがゆえに、とりわけ旨いのであろうが、くやしくて仕方がない。それに大人と呼ばれる歳になってから勝手に味わえる限定物である。「今から成長する子にはじっこなんぞ…」もちろん好いところをとられまいという気持ちではなく、それはとてもあたたかく、やさしい大人たちの言葉だったと十分にわかってはいるものの、どこかくやしいのである。だからというわけではないが、あんこの入らない「かるかん」なんぞに巡り合うと、それはもう幸せそのものである。
 それはまるで「はじっこ」を丸ごといただいているようでとても贅沢なのだから…。いっそのことたい焼きや大判焼きのあん抜きもあってほしいものだと思うほどだ。

 さて、私の「はじっこ指向」はなにも「食」だけではないらしい。机の下やグランドピアノのお屋根、お部屋の隅っこ、うずくまって入れる隅の方が私にはちょうど好く、心地よいのである。

 隅っこ… 端っこ… 角っこ…

 カステラの敷き底を見つめる幸福感と何だか通ずる心地よさがある。

 もし我が家が三角お屋根のお家で小さな小さな屋根裏部屋があったりしたら、そこは極上の「やすらぎ部屋」であろう。

 私だけの贅沢にひたりつつ、秋の夜長を味わいたいものである。でもおはぎのあん抜きは厳しいかなぁ…

(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/11/8掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 16 随筆/[日曜随筆] | 個別ページ | コメント (0)

〔日曜随筆4〕 赤と黒との再会

 私の最愛の父が私の生きるこの世から、いなくなってしまったのは、ちょうど七年前、私が十五歳の夏でありました。
 私の中の「私」の記憶は三歳ごろまでさかのぼることができますが、十五年の間に娘として眺めた「父」の記憶は、とても断片的で、折に触れ、時に接して思い出す具体的な印象は、なぜか漠然としているのです。ただ、結論的に「私」というひとつの人生を強く導いてくれた人物だという意識があり…ということは私にとって父の記憶は父親というより、画家新城剛(しんじょう ごう)なのであります。
 
 それは何も「親子」という血縁的感情がないといわけではなく、姿が見えなくなった今でも、いや今だからこそ、熱く燃ゆる画家という父の血が私の中で生き生きと脈打っているのを感じるのであります。それこそが私の血縁的感情だと私は思うのです。

 舞踊家である母への想いも同様です。
 父が健在だったあのころ、父と母と私の生活の中で、互いの意識がそうであったように、今でも母と私は二人の女性であり、そして師匠と弟子、時には同じ道を志す大先輩と同居させてもらっている気持になることさえあります。
「べったり」とくっついている一卵性親子時間あり、それぞれが何かに没頭する私時間あり…かつて二人で美を追い求めていた父・母である男と女、そして私・娘の組み立てた我が家の「親子」感覚は、いまだにとても快適で、かつ激戦…すなわち大変刺激的であります。


 さて「美を追い求める」と書きましたが、キャンバスに向かい立つ父はまさしく絵に描いたような画家…と言いたいところですが、お話しに出てくる絵描きさんのベレー帽姿とは似ても似つかぬもので、汗止めにと強くねじった手ぬぐいを額にぐるりと巻いておりました。
 油絵の具のチューブの洒落た横文字メーカー、ペインティングナイフのライン、部屋を囲む石膏像達…西洋の風を感じるアトリエと呼ぶ画家の部屋に、父のあの姿は実に滑稽です。
 そんなユーモラスな光景も作品の出品を目前に、いざ追い込みの何日間は声もかけづらい程の張りつめた時間であります。
 夜も遅く庭の木々に映る二階のアトリエの静かな明かりに気がつくたび、父の孤独な戦いを見守るたびに、私は「画家である父」という意識を重ねていったのかもしれません。


 先日、久方ぶりに画家新城剛に会いました。島を愛し、祭祀に魅かれて描き続けたあの分厚い赤と黒の重なりが、父と私を強く結び、引き合わせてくれるのです。彼が遺した絵を目の前にすると、あのころの時間が昨日のように甦ってくるのです。今、彼にそして父に会うたびに、表現の世界を志す厳しさが庭に映る孤独な明かりとなって私に憶(かえ)ってくるのです。そしてその想いを痛感するたびに、創りだす明かりはとても美しく、ドクッドクッと血が騒ぎ、創造の世界に吸い込まれていく私を感じるのであります。

 「画家である父」の熱い熱い血が私の身体の中で脈々と流れるのであります。

(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/9/20掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 16 随筆/[日曜随筆] | 個別ページ | コメント (0)

〔日曜随筆3〕 夏ものがたり

夏が巡ってくると、思い出すことがあります。
胸がきゅーんとしめつけられるように甦ってくる夏が、いくつもあります。
それは夏独特の雨の音や、フクギの実のあの匂いや、男らしくわき立つ雲に誘われて私の心に帰ってくる「夏ものがたり」であります。


 滝のように流れ出る汗を感じたとき、人一倍汗っかきの父のおかしな夏姿を想います。
 少し黄ばんだアンダーシャツに、すててこの組合わせが父の五時後の夏衣でした。よれよれに、くたびれたその肌着を胸の下辺りまでたくし上げ、くるくると紙縒り(こより)上にして差し込んであります。ビールでふくれたご立派なお腹と女性顔負けの豊満な胸とに挟まれて止りが良いと見えます。不思議なことに片方の袖と、その反対側の足の裾とを巻き上げるのであります。そんなに暑いのならば両方とも、と思うのですが、今思えば父特有の美的感覚だったのかもしれません。それに加えて早食いで、汗をふきふき、箸の運びが忙しく、そばに居る者の方が暑苦しく思えたほどです。

 冬の父はあまり寒くならない南の冬に嫌気がさしたのか、クーラーをがんがんに効かせては、こたつにもぐり、凍える中で熱燗を楽しんでおりましたので、それを考えると、汗の滴る夏をおもいっきり楽しんでいたのかもしれません。


 父の夏姿といえば、向田邦子作「父の詫び状」の父は、夏麻(なつそ)の上下にパナマ帽で、小粋にしていらっしゃいました。夏中、男性はそうしてほしいと、夏がくるたびに憧れるのですが、この焦げるように暑い、いや熱い八重山では、いくら麻素材でも、つらい注文なのかもしれません。
 

 さて麻の上下でなくとも、八重山の男たちが一番男らしく、素敵に感じるのも夏の季だと思います。
 綱帯を下っ腹に、ぐいっとしめ、我が村の旗頭を導く若い衆の姿は、八重山に生まれ育った私にとって、何よりも男の色気を感じる時です。村の少年たちは、僕も早くああなりたいなと憧れを持ち、島の女たちは力強くたくましい夏の男たちにうっとりとするのでしょう。夏がくるたび、祭りのたびに、うっとりと惚れ惚れして、私はこの島に、この村に生まれて幸せ物だ、と血が騒ぐのであります。
 

 朝、まるで狂ったかのように鳴く蝉声のけたたましさも、フクギに住むこうもりたちに守(も)られる静かな夜も、私のお気に入りの夏模様…
 ゴーヤ-の緑、甘い香りのマンゴー、クバ扇の涼やかさ、夏木陰に吹く風の心地よさ…ならべるときりがなく、けだるい暑さの中にのぞく夏の彩に今日も酔いしれるのであります。


 先日西表島で夏蚕(なつご)にお目にかかりました。どっさりと、てんこもりに盛られた桑の葉を必死にたくわえる姿はとても愛らしく、かと思えば、あの小さな体が絹糸を吐き生む姿のたくましさ、そして美しさに、ただただ感動いたしました。
 

 今夏、私の「夏ものがたり」に綴られる、熱い熱い一ページであります。

(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/8/2掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 16 随筆/[日曜随筆] | 個別ページ | コメント (0)

〔日曜随筆2〕 島色の魔術

ーみどりー私の島を染める色である。
 窓の外には福木のみどり、おもとの山にも年中変わらないみどり。私は島にあふれる「みどり」という色に気をとめることもなく、それどころか、あまり代わり映えしない島の色にうんざりすることさえあったように思う。「みどり」という色は私にとって特別な色ではなかったのだ。


 「みどり」とは本来、瑞々(みずみず)しいという感じを表していたようで、新芽や若葉の黄ばんだみどりの萌黄から、青々としたみどりの深緑まで、草木の生育を表す色だという。
 「みどり」は冬の後にかならずめぐってくる規則的な四季をもつ人々の自然賛歌を表していたのであろう。
 若緑や若竹は青春や青年の清らかさや涼やかさを、常緑樹の濃く深い常葉(ときわ)色は、常に変わらないことを賛美して、人類永遠の願望である不老長寿のシンボルとして、神聖な色に思われたというのだから、春夏秋冬、寝ても覚めてもみどりに守られているこの島に「心から感謝」と思うべきなのであろうが…。
 

 あまり興味のわかない「みどり色」だが、踊りをしている私にとって、切っても切り離せないみどりがある。島の自然(みどり)の生む染・織(そめ・おり)の世界である。
 衣裳とは、ただ単に踊り手の身を包むというだけではないと思う。八重山の踊りが暮らしの節目の祭の日に感謝と祈りの思いから、奉納舞踊として生まれ、今日に伝えられたように、女たちは糸を績み、糸は島が包含している色に染められ、機にかけ、彩を生んだ。そしてそれは、踊りと共に神へと奉納されたに違いない。
 祭の場が舞台空間へと変化し、八重山舞踊がひとつの表現芸術になりつつある今だからこそ、島色に染められた衣裳へのこだわりが深まるのである。
 でも不思議である。同じように見える木々のみどりから、まさにいろいろな色が生まれてくる。

 蘇木(スオウ)のみどりは、妖艶な女を思わせるような深い赤…女人そのままを表す魅力的で魔物のような赤へ。
 琉球藍のみどりは、瓶のぞきと呼ぶ淡い青から、黒に見紛う深い青の濃紺まで…島の祭りの男の色へ。
 いつも同じ顔の我が家の福木でさえ、金色(こんじき)を思わせる冴えた黄色に化けるのであから、島の自然(みどり)色は、私にとってー魔法色・まほういろーそのものである。


 さて植物であれば、緑は一番に染まりやすそうな色だが、これまた不思議なことに、単独の緑の染料はないらしく、青である藍の濃淡に、福木や梔(くちなし)の黄をかけ合わせることで、数限りない緑が生まれるという。光の黄色と闇の青とが生む、まさに「みどり児」の誕生である。

 みどりの中に、目には見えない赤や青を思うとき、島のみどりが、ことさらに美しく見えてくるのも、秘色をふくんだ、みどりの魔術であろうか。
 島の秘色(みどり)に抱かれたとき、幾色をも思わせる踊り手に、そして自分になりたいと私は思う。

(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/5/10掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 16 随筆/[日曜随筆] | 個別ページ | コメント (0)

〔日曜随筆1〕 始まる・始める

 私は、何かが始まる前のあるいは何かを始める前の時間がとても好きだ。糸をぴんと張りつめたような心身の集注と緊張が何とも心地よいのである。

 劇場に足を運ぶ日は、朝から、いや前の晩から、その心地である。
 何を着ようか、歩いていこうか、雨は降らないだろうかと、まるで主人公気取りで、気持ちの高まりを楽しんでいる。劇場や映画館に入り、幕の上がる前のざわざわとした落ち着かない様子は「始まる前」の独特の空気…そして、いよいよとベルがなり、すぅっと場内が暗くなるとき、その瞬間が私の「心地よい集注」の絶頂である。

 それが室内楽やオーケストラの演奏会だったりすると、なお面白い。
 バイオリンというリーダーが各楽器たちののどの調子を確かめているかのような表情は、なんだかもったいぶっているようで楽しい気持ちになる。その後の演奏よりも、わくわくしたりするのだから、不思議である。
 それは、今から始まる「何か」に対し、きっと感動するはずだという、大きな期待と少しの暗示もあるのであろうが…。私にとって、この瞬間が、心騒ぐときであり、「始まる前の雰囲気」とは、安らぎなのである。

 「何かを始める前」の私も同じである。
 絵を描く前に、パレットを手に、絵の具の各色を、お行儀よくならべているときの、うきうきした気持ち、いざ絵筆をにぎると、その気持ちが長続きするものでもないのだが…。
 書を習う時、すずりに向かって墨をすると、墨のにおいが立ちこめてくる。「書を始める前」のなんともいえない、いいにおいと、この上ない落ち着きがある。休日に読書でもと、本屋に出かけ、いい本に巡り会って、大事に抱えて家路に着くまでの心持ちも、どこか似ているように思う。本を開くまでの時間の方がドキドキしていて、ご機嫌である。
 
 生業というにはまだ未熟者だが、人生の表現に踊りの世界を選んだ私にとって、本番前の舞台裏は、まさに「始める・始まる前」の世界だ。鏡の前にくしを並べ、白粉を溶く。そして部屋中に立ちこめる椿油と鬢付(びんつけ)のあの匂い…。私の興奮剤であり、何よりもの精神安定剤である。
 ひとつの公演の中で、いくつもの作品を踊るときがあるが、きりっと凛々しい男姿から、かわいらしい村娘までさまざまだ。一つ一つの作品は、時間にすると短いものではあるが、約二時間という限られた公演時間で、私という一人が、いろいろな人生を演じなくてはならないと受けとめている。舞台の袖幕を境に、たくさんの登場人物を通して「始める前」の世界を行ったり来たり…。何とも言葉にはできない私だけの快感である。

 春という今の時期も始まる前の、あるいは始める前の心情である。新しいクラス、新しい生活…。出会いや喜びが巡ってくるような、清清しい季節である。私にも春の便りとともに、この日曜随筆担当のお役目をいただけることになった。もちろん文を書く前の心の緊張も楽しいはずなのだが、締切があるというだけで、趣味とは異なるようで、つらいこともある。原稿用紙を前に、いつまでも「始める前」の楽しさばかり味わっていると、まるで火付きの悪い花火のようである。
 始める前の気持ちというのはごく短い時間に限り、心地よい集注と言えそうである。

(八重山毎日新聞「日曜随筆」1998/4/5掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 16 随筆/[日曜随筆] | 個別ページ | コメント (0)

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