年の瀬にあわせて、私の半年の「落ち穂日記」も最後のページを迎えることになりました。文を書くといいうことは幼い頃からとても好きで、本を読んでいる時間よりも、書いている時間の方が多かったように思えるほどです。紙と鉛筆さえあれば、素直な自分と出会い、ゆっくりとおしゃべりができるのですから、私にとってそれはとても素敵な時間なのです。
とはいっても、二週間に一度まわってくる「落ち穂時間」には実に大変なときもありました。鏡の中の自分と話しているような「文を書く」という素敵な作業は、ただただ素敵なだけではのぞけないようであります。
調理したいのは決まっているのに、十分な材料がそろっていない時、冷蔵庫の中の有り合わせの材料を前に、さて何を作ろうか、何が作れるだろうかと迷う時、時には材料が有り余って悩む時もあったりしますが…。
でも「落ち穂」という舞台は私に教えてくれました。材料を掻き集めて書くもよし、焦らずにそろうのを待つもよしだと思えるようになった気がします。どちらにせよ、私なりの味付けを大切にしたいものだとも…。
締めきり間近の徹夜の朝は、次回こそは早めにと心に誓い、また時間をかければいいものが書けるわけじゃないと勝手な言い訳をしては、差し迫った勢いが必要だと自分を励まし…そのくり返しだったように思います。
一定のサイクルで巡ってくる「書く」という半年の時間は、以前のように心を動かされたときにだけペンを走らせていた自分とは違い、身近なことやものに意識して気をとめるようになりました。私の受信発信の装置も少しは感度がよくなったかしら…。
「落ち穂」という私の舞台は今日、楽日となります。でもこぼれ落ちた穂は土へと還り、きっとまた次の実を結ぶための栄養となるでしょう。私の「落ち穂日記」もそうでありますように…。
(琉球新報「落ち穂」1996/12/25掲載)