彩 思 い [ ayaumui ]

『彩思い(あやうむい)』 

ブログ『彩思い』は新城音絵の文筆記録のページです。
オフィシャルブログは『南島游行』へ移行いたしました。

〔落ち穂12〕 私の「落ち穂日記」

 年の瀬にあわせて、私の半年の「落ち穂日記」も最後のページを迎えることになりました。文を書くといいうことは幼い頃からとても好きで、本を読んでいる時間よりも、書いている時間の方が多かったように思えるほどです。紙と鉛筆さえあれば、素直な自分と出会い、ゆっくりとおしゃべりができるのですから、私にとってそれはとても素敵な時間なのです。

 とはいっても、二週間に一度まわってくる「落ち穂時間」には実に大変なときもありました。鏡の中の自分と話しているような「文を書く」という素敵な作業は、ただただ素敵なだけではのぞけないようであります。
 

 調理したいのは決まっているのに、十分な材料がそろっていない時、冷蔵庫の中の有り合わせの材料を前に、さて何を作ろうか、何が作れるだろうかと迷う時、時には材料が有り余って悩む時もあったりしますが…。

 でも「落ち穂」という舞台は私に教えてくれました。材料を掻き集めて書くもよし、焦らずにそろうのを待つもよしだと思えるようになった気がします。どちらにせよ、私なりの味付けを大切にしたいものだとも…。
 

 締めきり間近の徹夜の朝は、次回こそは早めにと心に誓い、また時間をかければいいものが書けるわけじゃないと勝手な言い訳をしては、差し迫った勢いが必要だと自分を励まし…そのくり返しだったように思います。
 

 一定のサイクルで巡ってくる「書く」という半年の時間は、以前のように心を動かされたときにだけペンを走らせていた自分とは違い、身近なことやものに意識して気をとめるようになりました。私の受信発信の装置も少しは感度がよくなったかしら…。
 

 「落ち穂」という私の舞台は今日、楽日となります。でもこぼれ落ちた穂は土へと還り、きっとまた次の実を結ぶための栄養となるでしょう。私の「落ち穂日記」もそうでありますように…。

(琉球新報「落ち穂」1996/12/25掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 17 随筆/[落ち穂] | 個別ページ | コメント (0)

〔落ち穂11〕 間(はざま)の美

 初めての奄美旅行である。石垣ー那覇ー奄美と海越飛行時間1時間三十分、距離にして約七五〇キロの北への道である。薩南諸島と琉球諸島の流れを南西諸島と言うのかどうか正しくは知らないが、奄美とは、弓形に縄を浮かべたような琉球弧と言われる南海の島々の北の門であるように私には思えるのだ。
 その私が勝手に思う琉球弧の北の門は、ある時は薩摩の、いや日本の南の門であり、かと思えば、米国の占領下、そして今はもちろん鹿児島県である。いや私は今”もちろん”と書いたが今までに奄美のシマウタの三線の蛇皮腹を見る度にうれしく思い、心のどこかで奄美を沖縄の一部に考えていたところがあったかもしれない。これまた勝手な思いであった。

 今旅、私は奄美の風に包まれてシマウタにふれることができた。私が歳を重ねたせいだろうか、もの哀しいような、せつないようなあのかん高い声は媚薬のような効き目を私に与えてくれた気がする。まだまだ中毒とまではいかないにしても、シマウタ抜きに奄美は語れない思いだ。ピンと強く張った弦に細い竹でかき鳴らすあの音がたまらない。弦を弾くたびに生じる竹の小さなうねりが見えるような、聞こえるような気がするのが心地よいのである。楽器そのものは沖縄の三線と同じだと思うが、音の連なりには確かに日本の音階が見え隠れする。といっても、その調べに私の血がさわぐのは、やはり琉球弧と言われる所以だろうか。
 

 地理的、歴史的条件から、もしも日本と沖縄を個別の文化圏とし、あえて奄美を間(はざま)としたならば、まさにこの地は北と南の結びの地ではないかと私は思う。北から微かにたどりつく寒流と、それを抱き込むかのような藍黒色の暖かな水とが出会い交わる瞬間の美しさが、奄美には見えるような気がするのだ。
 

 奄美が私に見せてくれた「間ーはざまー」とは自然と時間の織りなしの中の「異・同・融の美」だと思えるのである。

(琉球新報「落ち穂」1996/12/17掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 17 随筆/[落ち穂] | 個別ページ | コメント (0)

〔落ち穂10〕 前略 向田邦子さま

 前略 向田邦子さま

 この前、久しぶりにあなた様の綴られたお話しをテレビの朗読番組で読ませていただいてから、我が家の本棚に勝手に名付けた「向田邦子コーナー」から、何冊か取り出しては素敵な時間に取りつかれている私でございます。説得力のあるやさしい鋭さや、簡潔な中にのぞく「心くばり、気くばり、思いやり」、何といってもあの小気味よい独特の言いわましが私のリズムにあっているのでございます。
 
 さて、私と向田さまとの出会いはテレビドラマの「阿修羅のごとく」だったように思います。たしか私が六歳の頃、今覚えているのはオープニングに流れていたオスマン‐トルコの軍隊行進曲のあの単調で無気味な四拍子だけ。ドラマの内容は全く覚えていないのですが、我が家の向田病のはじまりはその頃からだったように思います。
 
 あなた様の描く向田家の姿に、母は明治生まれの両親のなつかしさを重ね涙々し…今の時代では想像つかぬ家族のかたちに、私は滑稽さと、大きなあこがれを抱くようになり…、今では頑固で不器用な男(ひと)に、男のなかの男らしさや、「男のやさしさ」を想う年ごろとなりました。家庭の中で、今の時代より偉大だったと思う家長・主・父という男の存在、そして「この人」に従いて生きる(生きていく)妻・母という女の姿…耐えて服従するという言い方はあまり好きではありませんが、そう想う妻心(おんなごころ)とそう想いを寄せられたわがままで厳格な夫たちを、私は羨ましく想い、美しささえ感じるのであります。それは何も男性優位を肯定しているわけでも、耐える女を美徳化しているわけでもなく、いつの世にも真に想い合える男と女の間には上下などないように思えるし、そう思いたいのです。

 数限られた作品たちは、歳を重ねる私の中で、その時々の新しい想いを呼び起こし、人生相談にのってくれるというのに、我が家の「向田邦子コーナー」に新しい作品がふえることがないのを思うと、さびしいやら悔しいやら…
 
 でもまたお手紙書きます。

(琉球新報「落ち穂」1996/11/28掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 17 随筆/[落ち穂] | 個別ページ | コメント (0)

〔落ち穂9〕 観光とは・・・

 そういえば私は、ここ1年間、旅に出る機会に恵まれているような気がする。それは踊りの公演旅行が主なのだが、岡山の倉敷、群馬の桐生など、その土地や、そこの人々との温かな出会いがたくさんあった。移動中の車や電車の窓の外をやさしく通りすぎるそこの土の匂いや風の色、そしてその土地に生きる人々の姿、その土地ならではの色々な出会いが、旅のいちばんの魅力ではないかと想う。少なくとも私にとってはそうなのである。

 さて、我が沖縄県は観光立県、私の住む石垣市は観光都市宣言などと、私にはさっぱり訳のわからない宣言を揚げ…はて?「観光」っていったい何だろうと私は最近よく考えるのだ。
 

 きらきらと透明な海に囲まれたこの島に人口ビーチなんぞを造ることが観光というものなのか。都会から田舎までどこに行ってもかわり映えのしないリゾートホテルとやらも、どうもいただけない。そうすることが観光地として発展しているということだと考えているのであれば、それは違うような気がするし、さびしくなり、恐ろしささえ感じるのだ。
 

 沖縄の人々が「観光」ということに意識し始めた頃、南国特有の青い海や空の美しさはもちろんのこと、地理的に暖かな気候、歴史的にに苦道を力強く歩いてきた沖縄人の明るさや大らかさ、厳かな祭の心、暮らしの中の歌や踊り、この沖縄は、それこそ沖縄独特の宝をたくさん秘めている。それを誇りに思う気持ちからではないだろうか。
 

 「観光」とは意識して造ったり、用意したりすることではないし、そうできるものではない。島に暮らす私たちがこの島を愛していること、そして大切に思う心、同時にかまえることなく、気負うことなく、ありのままの姿を見ていただくことこそが、いちばんのおもてなしではないかと思うのだが…。

(琉球新報「落ち穂」1996/11/11掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 17 随筆/[落ち穂] | 個別ページ | コメント (0)

〔落ち穂8〕 雨休日

 私は雨が好きだ。特に休日に降る雨はたまらない。スコールのようでも、しとしとじれったい降り方でもどちらでもかまわない。とにかく休日は朝から晩まで雨であってほしい。雨になるとなぜか一日中ふんぞり返っていても許されるような気がして、でもそう思う私って余程の怠け者なのだろうか?ところが不思議である。雲ひとつない晴れた日ほど頭の中も澄みきっていそうなものだが、私の頭の中は雨の日ほど快調で、冴えている。本を読むにも文を書くにも、打ってつけの日だ。休日で何も手を付けたくないくせに、やけに仕事ははかどるし、集中力はあるし、雨の力は本当にありがたいやら…
 

 思い出してみると、幼いころから雨が好きだった。外に出て遊び回っている年頃のはずなのに、なんと不健康な小学生であったことか。でも平日の雨では駄目である。土曜日、特に下校する時間に合わせて降ってくれるとうれしかった。水たまりにわざと入って、靴の中にびちょびちょに水をふくませて帰るのも土曜日だとこまらない(いや土曜に限らずやっていたかもしれないが…)午前中出勤の父に車で迎えにきてもらうのも、これまたご機嫌である。どちらにせよ、家に着くと、びしょ濡れの私に風邪をひかせまいとタオルで頭をぐしゃぐしゃにふいてくれるあの感触、そして母や祖母のやさしさがたまらなかった。

 それと、もうひとつ我が家の土曜日のお昼はきまっておそばで、雨に濡れて冷えた体を、おいしく温めてくれた。今日は雨だから一日中家族みんなが家の中でのんびりと過ごすのだろうな…明日は日曜日だし…なんて幸せな週末なんだろう…と思うことで、おそばも格別においしかっったに違いない。旅公演だの、出張だのと両親が家にいない日が多かったせいか、休日、外に遊びに行くなんて何だかもったいない気がした。一緒にいられるうれしさと、そういう時間を与えてくれる雨に、感謝感謝だったのだ。
 

 最近の私の「雨休日」はモーツァルトである。モーツァルトの調べには、頭をぐしゃぐしゃにぬぐってくれた母のあのぬくもりを感じるのだ。

(琉球新報「落ち穂」1996/10/9掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 17 随筆/[落ち穂] | 個別ページ | コメント (0)

〔落ち穂7〕 私の「しらべ」

母と私の二人会の公演を終え一週間が過ぎた。まだ覚めやらぬ興奮と、何も手につかないような虚脱感とが入り混じって、心も体も何だか複雑な心地よさに、今だぼんやりとしている。

 さて、昨年につづいて二度目の二人会である。新たな節目となる今回の舞台に私は師匠の作品である「しらべ」の演目をいただいた。この作品は師匠が昭和五八年に作舞した初めての創作作品で当時私は八歳であった。この十三年間、稽古場で、そして幾度かの舞台で母がこの作品を育てていく姿に私は娘としてたくさんの思い出と想いがある。それは今回の舞台を通して、あらためて私の中によみがえってきた大切な大切な宝物(想い)なのだ。


 「しらべ」という母の新しい世界に出会ったとき、私は幼いながらに、なんて素敵でお洒落で陽気な動きなんだろうと心がはずんだことを覚えている。福木であざやかな黄色は、絹の持つ光沢とからみあって、日の光にたわむれる蝶の羽の輝きに見えた。また、まぁるくたどった舟底袖とキュッと片結びにした細い帯、そして長い木のジーファーでまとめられたうなじの髪が、何とも粋な蝶姿に思えた。でも今思うとそれは八つの少女にとって、見た目に蝶が舞い遊んでいる姿なのだとわかったことが、とてもご機嫌だったのかもしれない。
 

 私も歳を重ねる中で、母のこの作品へ込める「想い」の部分が少しずつ理解できてきたような気がする。それは単に蝶の舞い姿ではなく、あの小気味よさと、ためにためた間の取り方に、破裂しそうな胸の高まりや、ときめく乙女心が表現されているように思えてきた。
 

 幼いころから間近で見続けることができたことは、今回の舞台を初演として「私のしらべ」を創り上げていくうえで何よりの教えを受けたことだと悟(う)けとめている。師匠にいただいた言葉の「あなたの羽で…」もそれと重なることだと思えるのだ。
 

 「しらべを育てるパートナーができました」といってくださる師・母の想いがたまらなくうれしく、ありがたい。

(琉球新報「落ち穂」1996/9/26掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 17 随筆/[落ち穂] | 個別ページ | コメント (0)

〔落ち穂6〕 夕焼けとんぼ

   -夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か-

 茜色に染まった空、地平線にたたみ込まれた雲、一日の終りを告げる日暮れのとんぼ達、姉やに負われているのは男の子だろうか…さびしいような、でも温かくそしてやさしいこの歌が私はとても好きである。
 

 さて、この世界に登場する「とんぼ」、私はその赤とんぼに随分と悩まされた。長い間、私は赤とんぼというとんぼが本当に存在するものとは思っていなかったし、知らなかった。何色にでも染まるかのような透明な二対の羽が夕焼け空を飛んだとき、夕焼け色になるその時だけ「赤とんぼ」というとんぼに変身するものだと思っていた。それにそこの情景やその時によって、また見る人の心情によっても自由に衣裳変えのできるとんぼが、なんて美しいんだろうとさえ思っていたのだ。
 
 そういえば、「とんぼのめがねは赤色めがね 夕焼け空を飛んだから…」という歌もあったと思う。

 十五、六の頃だっただろうか、西表島のたんぼの中を飛んでいる本物の赤とんぼとご対面した。太陽が燦々と照る真っ昼間だったのに、そのとんぼは確かに全身が赤色だった。それは感激の対面でもあったが、それ以上に残念な思いがした。
 

 赤とんぼは、ただの赤いとんぼだったのだ。

 赤とんぼの正体を知ってしまったけれども、やっぱり私は夕映えした「赤とんぼ」の方が好きだ。だって私の赤とんぼは空色とんぼにも草色とんぼにも変化する七色とんぼなんですもの…。

 姉やの背に負われて見たとんぼの赤と、今日の赤とんぼとは、さびしさの分、「赤」の彩(いろ)は、どう映ったのだろうか。もしかしたら、その男の子が見たとんぼも夕日で羽が染められた「夕焼けとんぼ」だったのでは…。

    -夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先-

(琉球新報「落ち穂」1996/9/11掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 17 随筆/[落ち穂] | 個別ページ | コメント (0)

〔落ち穂5〕 音の魔力

 「音」とは人間が持つ五感の中で聴覚に伝わるものであり、それは摩擦や振動が空気や水や、あらゆる空(くう)を通して耳へとたどりつく「聴く」という感覚だと思っていた。が「音を観る」という驚きの出会いがあった。

 去年の冬、弦楽四重奏の演奏会があった。同じ音質で音域の異なった四つの音色の重なりの美しさはもちろんのこと、小空間での演奏だったからか、普段当たり前のように聴いていたその楽器の奏でる音が、まさに弓と弦とが触れあうことで生まれてくるものだという感動があった。弓を持つ手の表情や、奏者の体の揺れまでもが「音」なのである。その感覚は「聴く」ということを通りすぎて「音を観る世界」を私に与えてくれた。不思議な感覚を覚えた私はその時から、私の体に伝わってくるいろいろな音覚との出会いを探すようになった。

 「音を観る世界」をたどっていくと、現に音は聞こえてはいないが、観ることで聞こえてくる世界もある。物理的に生じる音は無いものの、一枚の絵は静止した状態からたくさんの音を聞かせてくれる。観る人それぞれの生まれ育った環境や体験、思い出や願望から体内で生まれ響く音である。作品と観る側との間には観る人の数だけ幾種類もの音がめぐるのだ。何と美しい「音の観える世界」だろうか。

 舞台という限られた空間で無限の効果をみせてくれる音もあった。あの冷たい鈴の音はしんしんと降り積もる厳しい冬を舞台一面に描き立ち向かわねばならない時の刻みや、激しくこわばった人の鼓動にさえも聞こえた。目には見えないまでも、辺り一面眩しいほどの雪景色や内面の葛藤までもがたった一つの鈴という音を通して、はっきりと視えたのである。「音から観えた世界」との衝撃的な出会いであった。

 「音」は人間の感情をゆさぶり、人間の追体験としての情景を描かせ、心理をかき立てる魔力を持っているようにさえ思えるのだ。

(琉球新報「落ち穂」1996/8/27掲載)

2007.04.13 カテゴリー: 17 随筆/[落ち穂] | 個別ページ | コメント (0)

〔落ち穂4〕 祭りの酔い

 恵みの雨をもたらした長い台風の時間が明け、島に夏の光と心地よい風が帰ってきた。

 今夜もまた太鼓と鉦鼓の音が、私を騒がせる。ワサワサと心が躍る。
 私の大好きな祭りの季がやってきたのだ。

 今年の豊年祭は私が生まれ育った村のお嶽で踊りをするお役目をいただいた。八重山舞踊が感謝と祈りの心から奉納舞踊として生まれ伝えられてきたことは書物や話でいつも心にとめてはいるものの、さすがにこの日の拝み手は単に所作とは言えない、まさしく感謝と祈りの念いであった。それを思うと人頭税に苦しんだ昔人の祭りはまさにハレの日であっただろうし、そのことで生活(くらし)をそして命をつないでいたようにさえ思える。小浜島のあかまた節の「踊らばん踊り 遊ばばん遊び 手寄し働き」の一節はこういう想いを詠んでいるのだろうか。

 それにしても、先人たちがつくりあげた「祭り」という舞台は実に見事な世界である。

 真っ青な空に勢ぞろいした旗頭…それはその村の顔を持ち、いかにも村をまもり、民を見守っているかのようだ。年に一度だけお目にかかれる旗頭を青い空に拝む時、胸があつくなり目頭がうるむのも幸せの限りである。
 お嶽を抱きこむかのように聖なる空間を包みこむがじゅまると福木…老樹にもハレの顔がみえる。
 またこの瞬間(とき)を待っていたかのように落ちる雨…雨を受けて立ち上がる地の熱、雨と濡れた土のしみ込んだ大綱、それに人衆の汗の匂いが入り交じって、これもまた何とも言い様のない「祭りの匂い」である。自然がもたらす、この日この時だけのぜいたくな演出に私は毎年酔ってしまうのだ。

 藁綱を腰にしめ旗頭を巧みに操る男たちのたくましさ、それでいて女たちの巻踊りをあたたかく見守る男のやさしさ、また雄綱と雌綱を結ぶカヌチ棒を貫く女のあのつよさ、裏方で祭りを支える女たちのこまやかさ、「祭り」とは男が男らしく、女が女らしく、まさにそれぞれの「剛」と「柔」が織りなす美しい日だと私は思う。

 私の祭りへの酔いを綴ってはみたものの、あらゆる言葉が欲しくなり、またどんな言葉でも言い得ない、言い尽くせない感がする。

(琉球新報「落ち穂」 1996/8/13掲載)

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〔落ち穂3〕 私の青

 関東も梅雨があけた今月の中ごろ、神奈川県の葉山へ行く機会があった。母の舞台の付き人としてである。「アメージング・ブルー(聖なる青)」と題してのその集いは、私に青(藍)という色への想いをあらためて湧き立たせてくれた。いやそれだけでなく、今なぜこれほどまでに青が私をとりこにするのだろうか。過ぎた時が活(よみがえ)ってくる。

 そういえば我が家には母の踊りの衣裳のいろいろな藍の色があった。藍がもたらすその色は実にたくさんの顔を魅せてくれる。

 藍がめの中をそっと一度だけくぐってきたような青…。それには限りない晴れ晴れしさを感じ、うっすらとした青が喜びの風をいっぱいにはらんでいるかのように見える。喜びのことばには変わりないが、これこそ私の島の「サニシャー」の青なのだ。
 豊年祭のこの季節、祭のことと重なって見える藍がある。いかにも手間と想いをかけ、幾度となく藍がめをくぐらせることを重ねただろう、黒に見まがうほどのたまらなく深い藍…。祭りの日の一番座に坐す家長の衣のその藍に厳かさを、また動く男衆のまとった藍に誇らしさと力強さを覚えるのである。

 母の作品の中に「月願い」という舞がある。羽織った藍型の打ち掛けの浅色濃色に母は念いの彩を折り込んでいるのであろうか。あたかも「月(陰)の青」に燃えたぎる女の炎(ほむら)の「太陽(陽)の青」が交わっているかのように思える。この打ち掛けの藍に派手の極みさえ感じるのは私の想いの変化であろうか。

 私にはもうひとつ忘れられない「青」がある。二十年近く厚ぬりの赤と黒を描きつづけていた父が、ある時、突然青い絵を描いた。「光と風が通り抜けるような透明感のある絵を描きたい」と…。
 南風(パイカジ)という絵を描いた年の夏、父は青い海で逝ってしまった。その青い絵は父の最後の作品となった。

 今回のアメージング・ブルーとの出会いは、私に過ぎこし日々の情景を思い起こさせてくれた。ますます好きになりそうな「青」。私の青の旅はまだまだ続きそうだ。

(琉球新報「落ち穂」 1996/7/30掲載)

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登録年月 04/2007
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